東洋史に詳しいブロガーさんと、半島の差別に関して軽くコメントのやり取りをした。
そうした中で、今まで疑問に思っていたことが文字にできそうなので、表面的なことだが簡単に今の自分の見方をまとめておこう。
ずいぶん若い時の見方と変わってしまっており、昔の私なら軽蔑する内容だが、これも自分の思考過程の途中経過として記事にしておこう。
人権を大切に、差別はやめよう、ヘイトスピーチに反対。
実にいい考えだと思う。
ところが、そうした主張をしている方の中の一部には、○○を殺せ!とか、だれそれは日本人じゃないとか、ひどい場合には人間じゃない、あるいは何々村出身だなどとの記事を書いている場合がある。
これは私でさえ、人権侵害、差別、ヘイトスピーチだと考えているが、その本人には素晴らしい見方なのだろう。
人権を尊重し、差別に反対し、ヘイトスピーチに嫌悪感をあらわにしながら、こうしたことを力説する。
私には、このどうしようもない矛盾が理解できなかった。
が、ここ数年少しずつ分かってきたことがある。
長い間差別し、あるいは差別されていた歴史や文化があると、自分の行っていることは差別ではないが、相手が行っていることは差別に感じてしまうのだろう。
その歴史の中には、ある身分の人間は人間ではないから殺しても犯罪ではないという文化もあった。
また、ある出身だからこれこれの職業にはつけないという歴史もあったし、それは一部の国では今も続いている。
これは、儒教に関して突拍子もない解釈をし、実際にそれを政治の中で培ってきた歴史や、有史以来独立国になった経験がなく、ずっと属国に甘んじてきたという歴史も大きく影響するだろう。
こうした歴史の中で、他を認めない意識が増長し、ひどくむごたらしい差別国が出来上がっていったのだと思う。
日本にも士農工商の枠外に存在する人々もいたが、これは一部隣国における存在とは比較ができまい。
なにせ、今の国政にもまだそれが生きているからだ。
また、戦後にも何万人と言う殺戮を幾度となく行ってきているからだ。
こうした状況の中では、その国では最重要項目の一つである出身に関することも、差別と言う違和感を感じることなく常識と感じてしまうのだろう。
また、人間差別、人種差別、出身地差別、職業差別、苗字差別のほとんどない、日本のような国に生まれ育ち健やかに生活していると、そうした方々の言われる内容に共鳴さえしてしまう場合があるだろう。
私も一時期はそう感じた。
しかし、少しずつ事実との乖離に気付き始める。
さらに、調べれば調べるほど、嘘が見えてきた。
話がまとまらなくなった。
人権尊重や差別反対を訴える一方で、ひどい差別をしている、あるいはひどいヘイトスピーチをしている方々に関しては、一部にはそうした風習や文化、あるいは初等教育でうけたであろうインチキ歴史観も強く影響しているのではなかろうか。
日本と日本人をひどく悪く言う人もいるが、私は日本に日本人として生まれて本当に幸せだ。
あらためてそう思うこの頃だ。