壬申の乱ののち、後世に白凰時代と呼ばれる時代を築くことになる、天智の兄か弟の可能性もある天武天皇。
天武天皇は、王位継承権ある天智系・菟野沙羅羅姫(後の持統天皇)との結婚により、蘇我の血を引き継ぎ中央集権がより推し進められることになった。
この中央集権化には、日本政治史上、その能力は他を全くよせつけない関東神占系の不等人の存在があるが、話がややこしくなるので省略する。
さて、持統天皇の存在は非常に重要だが、意外と知られていない話がある。
持統天皇は、天皇としては初めて火葬にふされたというだ。
これは持統天皇の希望でもあったらしい。
持統天皇の陵は、夫の天武天皇と同じ場所だ。
一般にこれを、天武・持統天皇陵などと呼んでいる。
なお、日本に天皇という名称ができたのは、この天武天皇かららしい。
淡海三船という、当時最も知識あるとされていた学者の発明によるもので、神武天皇から天武天皇に至るまでの天皇名も、彼が中心となって作ったものだ。
なお、これは私も長い間知らなかったが、平安後期から鎌倉時代のみならず、一部の期間を除いて天皇という名前は、江戸時代後期まで使われていなかった。
また、インターネットや小説などを見ると、天皇と皇帝を同じものと考えている見方を散見する。
が、これは全く違う。
しかし、その違いは面倒だから割愛しよう。
今上天皇は、結婚、子育てから墓に至るまで、改革の人である。