【随想】“気”とは何か | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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時々聞く言葉に、“気”とか“気功”などというものがある。

今日は、これについて考えてみたい。

こうした“気”とか“気功”とかにより、体が楽になったとか、気分が軽くなるとかいう話を聞く。

これはあり得る話だ。

が、それはいわゆる“気功”とかによるものではなく、実は自分自身の力によるものだ。

だからと言って、“気”やら“気功”やらの存在を霊界やら神界、あるいは地獄界とかと同じように否定しているわけではない。

霊やら神やらは心理的存在はあっても、物理的存在はまずないだろう。

ましてや、それらが金を必要とする確率は限りなく0に近い。
だから、そうした話に金が絡んだなら、ほぼ100%詐欺と考えていいだろう。


このあたりを少し考えてみる。


まず、どうして“気”とやらで、体調不良が治ったりするかを考えてみたい。


これにはプラシボと呼ばれる、偽薬を考えると大変分かりやすい。

心理的に問題があると思われる場合には、医者はプラシボと呼ばれる偽物の薬を出す場合があるようだ。

どういうことかというと、現在の医学では何ら問題が見つからないのにもかかわらず、激しい胃痛や頭痛を訴えた患者に対し、非常によく効く薬だと患者に教えこみ、ビタミン剤のような胃痛やら頭痛とは関係のない薬を出すことだ。

ところが、意外とこれがよく効いたりする。

つまり、患者は素晴らしい薬と感じて服用すると、それまで訴えていた苦痛が消える場合がある。

これは、患者の訴えている苦痛が肉体的なものではなく、大半は心理的なものである証だ。

だから、患者は優れた薬を飲んでいるというイメージが自分の脳に働き、それまでの苦痛が解消されてしまうわけだ。

新薬を開発する場合には、この偽薬を使っての臨床試験は必須に違いない。

なぜなら、新薬の効果が実際どれほどなのかを判定するには、そうした偽薬とともに試験しなければ、効果を比較できずに、客観的な効果の評価ができないからだ。


逆に考えると、心理的な病気ではない場合でも、偽薬が何らかの効果を患者に与え、病気の進行が止まったりする、あるいは回復する場合もあるようだ。

このあたりのメカニズムは、まだ現代科学では十分には解明されていないようだ。
こうした偽薬は効くというイメージが脳に届くと、脳は何らの物質を出すよう各器官に命令し、そこから出た物質により心理的ではない病さえよくなる場合もあるのだろう。

“気”とは、こうした自分の脳の働きのことだろう。
だから、気とかいうのは実は存在するわけではなく、そうした暗示による効力を気功とかいうに違いない。
だから、気功により治ったのではなく、それを信じて自分が治したという話なわけだ。

早い話が、これらは心理療法であり、物理療法ではない。

が、一般的にはこうした作業は人を落ちつかせる効果のある匂い、明かりなどの環境で、かつ話術巧みに行われるから、いっそう心理療法に効果があるのだろう。



だから、“気”自体の物理的存在は否定はするが、その心理的存在と効果はそれなりにあるだろうし、まあ商売としても仕方ないかなと思っている。
特に日本では精神科という場所へのイメージが、おそらく他の諸国のそれとは違う。しかし、セラピストだのカウンセラーとかなら抵抗が少ない。

私は、これもありだなと思っている。

ただし、何度か述べているが、こうしたことを利用して、悩み弱みある貧者から金をむしりとるに似た行為は、怒りを覚えてしまう。


その方法で大金持ちから多少かすめとるのは、むしろ拍手したいくらいだが。



ただし、そうしたテクニックを使い金を得ようとする輩は、だいたいがキンピラの友達だろうから、怖そうな相手にはけして手を出さない。


狙うのはもっぱら、弱く疑うことを知らない鴨か、善良で知識が乏しい鴨かのいずれかであろう。



つまり、気とかは心理的存在であり、それは物理的影響を及ぼす場合もあるが、それをしたのは自分の力なのだ。

神やら先祖を思う気持ちも同じだ。



ただし、金を出せば見返りがあると期待することは、やはり甘過ぎるし、自分勝手すぎると小言を言っておこう。






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中央黒い穴の中に、悩める男が立っている。

見えるだろうか?