
世界で最も愛されている絵、あるいは有名な絵と言ったなら、多くの方がこの絵を思い浮かべるのではないだろうか。

『モナリザ』あるいは『ジョコンダ』などと呼ばれている、比較的小さな絵だ。
この絵にも不思議をたくさん見つけることができる。
例えば、左右の目の焦点が違っていることだ。
これについてはNHKでも放送したことがあるから、知っている方もいらっしゃるだろう。
モナリザはあなたを見ているように感じるかも知れないが、実はあなたを見ていない。
しかし、見て欲しいという、あるいは見ているのだという先入観から、私たちはこの女性に見つめられている錯覚をおこしてしまう。
これが錯覚だということを自分の目で確かめていただこう。
それには、目付近を拡大すれば明らかだ。

どうだろうか。
これは絵を鑑賞する者を見ている視線だろうか。
いや、私にはそう思えない。
かなり斜めを見ていると感じる。
そう分かっても、もう一度全体像を見てしまうて、やはり見つめられているように感じてしまう。
このあたりが人の脳の弱さであるとともに強みでもある。
今宵の本題に入ろう。
またまた、指の話だ。
ダ・ヴィンチはガリレオ・ガリレイと同じように、本来なら宗教裁判にかけられてもおかしくない人物だ。
とにかく、キリスト教の常識たる三位一体や、ナザレのイエスを神の子とする『基本事項』に疑問を呈していたふしがふんだんにある。
だから、絶対やら完璧というものは存在しえない。
彼はそれを絵で訴えている。
このモナリザにも、似つかわしくない描写を見つけることができる。
そのひとつがモナリザの左手人差し指だ。

人差し指が変に崩れている。 絵の具が剥げ落ちたためにそう見えるとの考えもできるが、そうした見方をするには無理がある窪みのある指なのだ。
これはあえてそう描いた。
私はそう見ている。
人には何らの欠点があるものだ。
そう言っているように思える。
なお、昨日の話の続きになってしまうが、ダ・ヴィンチが教会からの注文で描いた最初の『岩窟の聖母』のエンジェルはこんなみずみずしい顔をしている。

が、その人差し指を見てみよう。

奇妙に長くしわだらけの老婆のようだ。
この手、指が魔女のイメージに重なってしまうのは、はたして私だけだろうか。
補足
『モナリザ』には磔になったイエスの顔が隠されている。
が、これは人の目では分からない。
X線撮影したものなら分かるが、残念ながら私は、その写真は持っていない。