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Cutting on Action

映画の感想など


 ピクサーにおいて初めて死が色濃く描写されたのは「カールじいさんの空飛ぶ家」と言って異論はないだろう。これは、はっきり言って大人向けの映画だった。おそらく人間の血がきちんと描写されたのもピクサー映画史において本作が初めてだろう(これ以前に魚のキャラクターが鼻血を出すシーンはある)。

 続く「トイストーリー3」のラストではかなり鮮烈に、ファミリー向け映画としてほとんど枠組みを越境しかけているのではないかというほど強烈に、死を意識したシーンがクライマックスで描かれる。特にショックを強めるのが、おもちゃたちがそれを受け入れる選択を取るところである。メジャーなアメリカ映画においてどれほど異例なことか。ここの描写は間違いなく、ある程度の年齢を脱した観客に向かって物語は語られている。要するに大人向けである。

 死が直接的に描かれない「インサイド・ヘッド」にも死の影はある。少女ライリーの脳内においてあるキャラクターが死ぬ。その代償として彼女は成長できる。それは幼年期の象徴でもあり、成長の代償として先に亡くなっていかざるを得ない親の存在とも重ね合わせられている。これも、やはり多分に大人向けのメッセージを含んでいる。


 ある頃から(おそらく「WALL-E」あたりが転換期)、ピクサー映画は明確に大人へ向けたメッセージを意識するようになった。大人も子供も分かるというより、子供ははっきりと意味を掴めなくてもいい、という割り切りをしたうえで成長した知性・理性に訴えかける描写である。それは昔からだ、という声もあるかもしれないが、かつての「大人向け」な描写は確かにsubtleと言うべき(ほかに適切な表現が見当たらないので申し訳ないが英語を使わせてもらう)程度に抑えられていた。

 その流れがたどり着くところまでたどり着いたのが「インサイド・ヘッド」と言っていいだろう。ほとんどメタフィクション的とさえ感じられるような複雑な多重性を持った脚本と知性が要求されるギャグの洪水は、(それが意図された目的の一つであろうとは言え)幼い観客を確実に混乱のるつぼに叩き込んだだろう。


 「アーロと少年」は、その流れに対する揺り戻しともいうべき、幅広い年齢層に訴える理解しやすいエンターテイメント作品であった。プロットは極限までシンプルに設定され、いわゆる「行って帰る」成長譚を幼い観客にも分かりやすくきれいに描いて見せる。

 さて、ピクサー映画における「死」の描写というものを大人向けであることの代名詞であるかのように語ってきたが、本作は実は子供(の恐竜)を主人公にした子供に向けられた映画でありながら、実はピクサー映画史上最も死に接近した作品だった。

 実は最初にそれが画面に現れるのは、(これはきわめてsubtleなので初見では気付かないが)主人公アーロがニワトリに驚いて逃げ出すシーンである。アーロは恐怖のあまり周囲が見えなくなり、危うく川に落ちそうになる。この映画において川は、自然の荒々しさや恐ろしさを象徴するものであり、第一幕のショッキングな展開を経てからは死を連想させる場所ともなる。三途の川、という例を出すまでもなく、そこは此岸と彼岸の境目を連想させる。


 この映画のテーマの一つをはっきり書いてしまうと、それは「恐怖とどう向き合うべきか?」ということになる。

 映画監督黒沢清は、あるインタビューで「ホラー映画というのは死を扱わざるを得ない。作者の死に対する考え方が現れる」と言っている。

 恐怖と死には根深い関係がある。死を崖の先に広がる深い谷のようなものだとしよう。私たちは崖のうえに立っている。恐怖とは、崖と谷を隔てる柵のようなものである。柵に押し返されるからこそ、私たちはふらっと死に落ち込まずに済む。時に私たちに牙をむく自然の中ではその恐怖というセンサーは極めて重要な能力である。

 本作の敵役は、その意味で主人公のシャドーである。彼らはあまりに強い恐怖にさらされた結果、恐怖を感じるセンサーがいかれてしまった。ここで「恐怖に捉われて過剰に反応してしまう状態」と「なにも恐怖を感じない状態」が実は極めて近く、裏表であり、どちらも同様に危険であることが示唆される。彼らは崖と谷の間に何も遮るものがない状態である。それはある意味で強く、恐怖を乗り越えているといえるかもしれないが、間違いなく最も死に近い存在である。

 そう考えて先ほどのシーンを解釈すると、アーロは「恐怖」を乗りこなせないために実はここでふいに死に接近している、というような場面だったのだということが理解できる。


 本作で死の影が最も色濃く表れるのは敵役との邂逅ではない(ピクサー映画史上最高にラリった場面が出てくるが、あそこでもない)。亡き父親を幻視する場面である。ここでは、ピクサー映画史上初めて「幽霊」が描かれていることに注目したい。

 アーロはここで此岸から彼岸へ「越境」する。そこでは死は恐ろしげなものではなく、むしろ父親によって与えられる親近感を伴っている。しかし、そちら側の世界と自分がいる世界とのルールの違い、そこが明確に別のものだということを彼は悟る。この展開が転換点となって、彼は親友を「死に最も近い存在」からこちら側の世界へ引き戻そうと決心するのである。最終的な決着がつけられる場は、当然のごとく川である。


 この作品で、このように死の影がちらつくのは、この映画がまさに生き生きと躍動する「生」を描いた映画だからに他ならない。行きつくところまで行きついたのではないかと驚嘆させられるCG技術により、本作では目を見張るような自然の描写がなされる。表面上リアルに見えるデフォルメされた自然ではない。時に雄大で、時に愛らしく、時に親しげで、時に不条理で、時にどうしようもなく、時に残酷で、時におそろしく、時にナンセンスで、時に気色悪く、時に言いようもないほど美しく、時に危険で、……ありとあらゆる自然の手触りを、あらゆる角度から丹念に描くことこそが、本作の技術的な挑戦に他ならないだろう。実写と見まがうような、しかし実写でさえ決して切り取れないような角度や動きを自在に交えながら、自然というものを、唯一無二の映像体験として、劇場に訪れた家族連れの観客に対し疑似的に体感させることこそが本作の狙いである。そして多様な角度で描かれる自然の中において、活発に「生」が躍動する。それは、私たちが生きている以上常に隣り合わせにある死の影とのコントラストによって輝くのである(言わば、これまでのピクサー映画が描いてきた死は大人だからこそリアルな実感を持って認識できる知的な死だったが、ここで描かれているのはもっとプリミティブな、本能の中に刻まれた体得的な死である、と言うこともできるだろう)。


 そして本作は、子供のころ外を駆けずり回った記憶だとか、本能的に体に刻まれている自然というものの手触りの記憶、そういう本能的記憶を呼び起こし、あるいは疑似的に体験させ、種々の感情を刺激し、その一環として恐怖という感情も手を抜かず刺激し、しかし怖がるという反応、それはそれでいいのだ、それが生きているということなのだからと諭す。

 疑似的にキャラクターの生を体験することができる映画館という場所へ足を運んだ家族連れに対して、この映画はそうやって、質の高い劇場体験をもたらそうとしている。