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Cutting on Action

映画の感想など

 
この映画は、「そう撮るしかなかった」ことによってかつての映画の特徴として記憶されているディテールをわざわざ再現しているような、いかにもまがいものとしての自覚を覗かせるようなところさえある。例えば壁のそばを歩く人の全身を真横から捉えたショットといったディティールなどに、かつての映画に対するフェティシズムを感じさせる。こういうオタク的な「再現」は、例えばQ.タランティーノあたりが得意とするところだが、タランティーノはどちらかというと登場したときから既にふてぶてしさが漂っていた。まがいものであるという自覚とともにまがいものである自らを開き直って見せる態度……もちろんこのふてぶてしさまで含めて彼の作家性なのは間違いない。
ところが、本作はふてぶてしいどころではなくて、この映画の姿勢を一言で表現すると、怖いもの知らずというか、ほとんど無謀、はっきり言って馬鹿なのだ。主人公ミアが歌ってみせる歌詞の中で「the fools who dream」と自称する通りである。
 
「シェルブールの雨傘」続編の「ロシュフォールの恋人たち」では、ジーン・ケリーが登場する。彼の顔が画面上に現れるあの瞬間に確かな驚きと感動があるのは、この2作がそもそも50年代あたりまでのハリウッド製ミュージカルに対するフランス映画的解体と再構築を試みた作品だからに他ならない。たまらない悲恋を描いてみせたり、台詞の全てを歌にしてみせたりするような、あえての裏返しから幸福感溢れる正統派ミュージカル文法に回帰して、その上で「ご本人登場」をやって見せる。こんな飛び道具が、まだ67年には使えた。
 
しかし、現代はそのような時代ではない。現代的……というより「今風」なミュージカルならとぎれとぎれに作られてきたものの、かつてのハリウッド製ミュージカルが描いてきたような夢の世界を正統な文法に則ってかたちづくろうとするのは、それこそ愚者の抱く夢であり、一人ならぬ巨匠たちがそこに手を出して痛い目を見てきた。
 
本作はまさしくそこに挑みかかろうとした作品なわけで、本作に織り込まれた様々な映画の引用からも分かる通り映画オタクであるところのディミアン・チャゼルが、巨匠の失敗という過去を知らないはずもない、というか、明らかにそれを踏まえた上で本作を撮っているのだが、しかしこんな無謀な挑戦をした30代前半のドン・キホーテは、結果として批評家観客ともに受け入れられ、華々しい成功を収めたと言える。
 
批判がないわけでもない。本作に対する批判として、「懐古主義的」「借り物の寄せ集め」というものがあるが、この映画はそのことを重々承知の上で、その愚かしさに対する葛藤と闘う心情を描いてもいる。それに、いくらオールドファッションの再現を試みたところで、現代においてもはやジーン・ケリーはいないのだ。つまりあのような、表情や身のこなしによって見るからにスター性を放つ、誰が見ても明らかな「スター」は存在しなくて、代わりにいるのはエマ・ストーンやライアン・ゴズリングのような役者ということになる。
 
最初、女優のキャスティングとして考えられていたのはエマ・ワトソンだったそうだ。しかしキャリアの先輩後輩はいったん忘れたうえで、エマ・ワトソンに「芽が出ない女優」を演じさせて嫌味な感じが出ないかどうかは、特にこのエマ・ストーン版の「LA LA LAND」をすでに観てしまった我々には疑問である。彼女の顔面には自信が満ち溢れすぎている。繰り返すが、キャリアには関係なく、エマ・ワトソンに「ちょい役」ができるかどうか考えてみてほしい。何でもない端役として彼女の顔面がスクリーン隅に現れたとき、それは全く映画に集中するノイズにならないと言いきれるだろうか。それに対して、エマ・ストーンの顔面なら、ぎりぎりそれは可能なのではないかと思わせられる(彼女のキャリアを考えて、そのような使われ方はあり得ないにせよ)。ライアン・ゴズリングもそのような役者だろう。あからさまなオーラを放ちすぎていて、一般人と明確な線引きを作ってしまうような誰にとっても一目で分かる「スター」ではない。
 
しかし、だからこそこの映画は感動的なのである。彼らは「夢追い人」であり、この映画そのものが本当なら叶わないはずの夢を追いかけ、何とかその領域に辿り着こうと全力でもがく「ワナビー」だ。それゆえに、浮き世離れというよりは庶民的な雰囲気をまとった役者が、そしてこの映画が、全力を尽くして「そこ」に肉薄しようとしたとき、真に胸を打たれてしまう。つまり彼らの役どころがワナビーであるのと同様にこの映画そのものがワナビーであるという二重構造がある。エマやライアンのパフォーマンスは往年のハリウッドスターのように完璧で一分の隙もないようなものではない。しかし常に全力であり、ワンカットであることから来る緊張感が漲っている。だからこそエモーショナルなのだ。
 
この映画に多数の引用が織り込まれているのは前述の通りだが、それはポストモダン的な引用ゲームとか、マニアに向けた目配せとかで片付けられない。the fools who dreamであるところの作り手たちはワナビーであり、本気でそういった作品群に「なる」という妄執に囚われているのである。それは容易なことではないし、革新的だったために偉大とされた過去の作品や人間をそのままコピーしようとする姿勢は倒錯的でもある(ディミアン・チャゼルに対して嫌悪感を抱く音楽ファンや映画ファンの不満はおそらくこのあたりに集中するのだろう)のだが、全身全霊で、現在において考えうる全てのアイデアや力を出し切ってそれを達成しようともがく、少なくともこれはそういう映画だと言える。
 
ただ一つ意識しておきたいのは、本作は、その上できちんと表現をアップデートしてもいるということだ。冒頭数分のシークエンスはショッキングである。アップからロングまで自在に移行するカメラワークというのは現代の、進化した映画ならではの要素だが、狂ったようにあらゆる方向へあらゆる距離感でカメラを振り、群舞を引きで撮るのも役者のすぐそばから姿を映して見せるのも全てをシームレスにワンカットで収めてみせ、舞台を見ているときに体感できるような肉体の存在感を損なわないようにしつつ、まさしく「現代的な」やり方で、その場に迷い込んだような錯覚すら抱かせながら「現代的な」映像を作り上げた(それも屋外で!)のは驚異的かつ感動的と言える。過去作のミュージカルシーンの文法をきちんと踏まえていながら、それでいて、誰も観たことがない映像になってもいる。このシーン一発でもはやこの映画は古典の一つに数え上げられることが決定したと言っても過言ではないのでは、と思わせる。
 
監督の前作セッションにおいて、ラストシーンでドラムと指揮者を交互に映して見せるのに使われたことが思い出される、本作でも多用されるあの激しいパン(ティルト含む)はまさに監督の狂気を体現している。セッションはジャズの演奏に取り憑かれた男達の狂気が表現された映画だったが、本作で一番狂っているのは監督に他ならない。とりわけ、激しすぎるパンを含めたカメラの動きに酩酊感と狂気が宿っている。そしてこれこそ、本作が文字通り単なる懐古主義と模倣の寄せ集めになることを免れた勝因の一つだとも言えるだろう。