福島の原発事故の被害で、相馬村など故郷を捨てざるを得ない人、去らない老人の方々のニュースが流れています。生活ができないと住むことはできないが、一方でとくに自然豊かなふるさとを捨てることは想像以上の苦悩があるのではないか、と想像されます。
自分の小さいときの思い出を考えてみても、まず思いつくのは、自然の中で遊んだこと。
まだ緑豊かな武蔵野の中での思い出は、大きな松の木に止まっていたクマゼミ、林から畑に飛び出したうずらを追いかけたこと、道端で見つけた木イチゴを食べたときの喜び、畑のひばりを追いかけ畑の人に怒られた思い、、、
全てが自然の中の思い出ばかり。
自然が持つ大きな植物連鎖の神秘から学ぶ生き物の命の大切さ、なども含めて、自然から学ぶことは人間が生きものとしての基本的な学習なのではないでしょうか?
私は小鳥が好きで、ひばりなど野生のひなを巣から持ってきたことが何回もあります。
かわいそう、と反省して巣
に戻しますが、もう親は決して巣に戻りません、人間の手にかかった子供に餌は決してあげません。では、と思い人間が育てた小鳥は、大きくなってから子育てができなくなってしまいます。
「あーあ、人間は自然に手を入れてはいけない」とこのことから学びました。
夏休みになりましたが、どこの公園にも子供の姿がありません。
思いやりがない最近の世の中、実は、小さなときに自然で遊び、自然に学ばないことが、その原因の一つにはなっていないでしょうか?
母親の過保護はいびつな性格を作.る、とは言いませんが、ゲームもテレビも結局全て自分の心の中でのバーチャルな世界です。言うに言われない悲しみ、心をこめたときの繋がり、これは自然の中で一番教えられる、学ぶべきことなのではないでしょうか?







