前回、前々回のBlogで、
最近行われた日米関税交渉について書きました。
で、関税といえば、我々が日本史を学んだ時、
「日本は徳川幕府の時代アメリカに脅され、
為す術も無く関税自主権のない不平等条約を結ばされた。」
と学びましたね。
その”不平等条約”とは、
1858年に日米間で結ばれた「日米修好通商条約」ですが、
その条約においての関税に関する規約は、
アメリカから日本への輸入品への関税が20%で、
日本からアメリカへの輸出品には5%の関税がかけられる、
というものでした。
あれ? 輸入関税の方が高いじゃないの。
ということは・・・
日本に対して有利な条件だった!
これのどこが不平等なんだ?
不平等な関税率を受け入れたのは実はアメリカだったのです!
日本はぞれ程魅力的な市場だった。
だからアメリカは先手必勝の法則で、
不平等な条件を飲んででも、
どの国よりも先駆けて日本と通商関係を結びたかったのです。
このように、
徳川幕府は有利な条件でアメリカと条約を結び、
国民を重税で苦しめるのではなく、
外国からの貿易収入によって富国強兵への道を歩んだのです。
しかし、その後転機が訪れる。
1866、長州藩が攘夷の名の下に外国船を砲撃し、
英仏欄米と「下関戦争」をおこし、あえなく敗退。
徳川幕府は長州藩の暴挙の責任をとらされ、
賠償金を払わされた挙句、
欧米からの輸入関税は5%に引き下げられてしまったのです。
その結果日本国内の経済は混乱し、
幕府への批判が高まります。
それに先立つ1863年、
薩摩藩が当時蜜月関係だったはずのイギリスと戦争を起こし、
その責任をとって徳川幕府はイギリスに賠償金を払いました。
薩英戦争の後、薩摩藩はイギリスから大量の近代兵器を購入し、
その後長州藩と手を組んで、
相次ぐ賠償金で経済的に弱体化した徳川幕府を打倒し、
新政権を樹立したのです。
こんなにもしたたかで、
自分が政権をとるためなら国民を犠牲にすることも厭わない人達が政権を掌握した。
そして明治政府樹立後、日本は次々と泥沼の戦争の道を歩み、
最終的に第二次大戦で焼け野原となり、
国家解体寸前にまで追い込まれる。
このように史実を再考察してみると、
明治維新から日本の焼け野原までが、
一本の線でつながっているようにさえも見える。
そして、
元薩長率いる明治政府によって作られた「薩長史観」は、
今なおゾンビのように生き残っている。
だから今に至るまで、
徳川幕府がアメリカと不平等条約を結んだと、
何とかの一つ覚えみたいに歴史の授業で習う。
不平等条約になったのは長州藩の責任なのに、
歴史の授業ではこの点が全く抜け落ちている。
バカがバカなことを言えば、
馬鹿なことを言ってると分かり易い。
しかし、歴史の先生とか、
大学の教授とかまでがバカなことを言ってたら、
バカなこと言ってると気付かないし、
信じてしまうのだ。
そしてこの薩長史観は今では、
主に右派の人々に受け継がれているようです。
ただ、その史観には多くの嘘が混じっていることを考えれば、
この点も注意が必要だと感じる今日この頃です。