どんより ぼんやり
大陸中国から飛来する諸々が洗い流されてすっきりした青空になるかと思えば、さにあらず。
今朝は寝坊をした理由は、心地よく暁を覚えない春眠であったからではなく、ちょいと風邪気味であったため。
直接の原因は、一昨日に急な外出をしたため。
その日は朝から頭痛に悩まされており、庭で作業するのもしんどかったので、土埃を流してひと眠りをしようと。
風呂場にいると電話が鳴るジンクス。
取り急ぎ出掛けて、戻ってきたのは5、6時間後。
用件は突然起動不能に陥ったパソコン2台の復旧。
無事に解決したものの、気になるのは、その原因。
おそらくは、LED電球。
使用環境に大きく依存するものの、専門業者が作って、市場に流通しているから問題ない筈、と考えるのは尚早。
あらゆる環境で何の問題も引き起こさないとの保証をしようがない。
調べてみると、問題についてはメーカも認識しているらしく、一部製品では何らかの対応をしているものの、原理的には解消不可。
よく似た話が、太陽光発電。
何れも、商用電源が交流 で提供されているのが原因。
ふえる ふやす
あるいはそのまま息絶えたかと思っていたところ、昨日の陽気に誘われて久し振りに登場。

以前よりも小奇麗に、毛艶も良くなっていたことは些かながら予想外。
パトロンを見つけたか?
現住所で暮らし始めて、10年少々。
庭で見掛けたネコの数は、10頭弱(それらが生んだものの、成猫になれなかった個体を含めても20頭弱)。
その中で、ざぁます猫は、ロシアンブルーx1、メインクーンx2、スコティッシュホールド(伏せ耳)x1の計4頭。
つまり、少なくとも南流山1丁目においては、野良猫の約半数は捨て猫で構成されており、それらが子を成しても大部分は成猫に至らずに死亡する。
死亡した仔猫の中には、自身が親猫と満足に過ごすことなくヒトの管理下に置かれたためであろう、異常なまでにヒト慣れした親猫が育て方を知らない(育児放棄ではない)ために生後半月で全滅した例もある。
野良猫が勝手に「殖える」のではなく、ヒトが野良猫を「増やす」(飼い猫を捨てる)ことを無視するご都合主義。
はれず
それでも、気分良く起きることができようわけもなく、逆縁を避けるためだけに生存を継続する。
それは、身体障害者とその家族に対する歪んだ理解と、公権力に胡坐をかいた暴虐の結果。
流山市が、その名を以て、市民にしでかしたことの結果。
暴虐による解決を強いるのであれば、暴虐による報復を覚悟していなければならない。
いるからわるい
何たる詭弁。
確かに、完全室内飼いが増えていることからすれば、首や肢をもがれるなどのようにして虐殺されるネコに占める野良猫の割合が高くなる可能性はある。
しかし、野良猫を病原菌扱いして冷遇する風潮が広がるのと同時に、畑や緑地が減少することで野良猫の絶対数も減少している。
虐殺する側からすれば、野良であるかどうかは対象としての選択動機にはならない。
むしろ、ヒト慣れした飼いネコの方が、容易に捕獲できることから選択し易い。また、誰かの「所有」であることを示す首輪を「戦利品」として喜ぶ向きもある。
何れにしても、食べること以外の目的で殺すこと自体が問題。
そうした振る舞いを行う者達を野放しにすることこそが問題。
事故によって大脳に損傷を受けることを除けば、犯罪者は生まれながらにして犯罪者。
栴檀は双葉から芳しい。犯罪者もまた然り。
その兆しを本能的に、また、客観的に認識しながらも、それがヒトであるとの理由だけで無視しようとする。
そうでなければ、欺瞞に満ちた「社会」から自らが孤立する。
どれだけのネコが虐待や虐殺の対象になったとて、何ら瑕瑾無き他人が犠牲になったとて、犯罪者を擁護するのが「ヨイヒト」の絶対条件。
「社会」とは、犯罪のリスクからも守られることを期して構成されるものであるにもかかわらず、犯罪者にとって心地よい仕組みばかりが求められる。
人権屋のように邪な寄生虫に逆らえない後ろめたさが大衆にあり、マスメディアに扇動されないための思考力が大衆にないため。
大衆を構成する個々が、自らの資質を向上させることがなければ、贄を必要とし続ける。
かえるのこ
サーカスで虐待を受け続けた大型獣が、耐え切れずに実力を垣間見せると即時処分される。
ゼニ持ちは刹那の道楽のために虐殺される大型獣も居る。
大衆は咎を気に留めることもなく、「燃えるゴミ」を生み出す。
斯くも、動物の生命は軽い。無いに等しい。所詮は「モノ」。
一方で、ヒトに対しては過剰なまでに保護がなされる。
その例外は、犯罪の被害者。
とりわけ、生命を奪われて、人権の対象から外された犠牲者。それは「モノ」でしかない。
従って、生存している加害者のみが人権の対象として最大限の保護を享受する。
その差異の非合理性。
その加害者が未成年ともなれば、人権屋連中が黙っていない。
マスメディアが迎合し、大衆を操作する。
千年を優に超える中央集権体制による支配に慣れきった我が国では、疑う者もなくなる。
大衆は、村八分を恐れる習い性に抗うことができない。
未成年は未発達。
それ自体が誤った認識。
物心ついた時点で、周囲の、オトナの社会における空気を感じ取り、感化される。
オトナが感じるストレスは、そのままコドモに及ぶ。
従って、未成年が犯罪を行うことは、成年がそうすることよりも重篤。
成年も、かつては未成年であったことを失念してはならない。
同様にストレスに曝されながら、成年になって初めて犯罪に手を染めたのであれば、その時までは堪えることができたのに対して、未成年でそうしたのであれば、堪えることができなかったことになる。
容易に犯罪に踏み込むような生来の資質を備え、且つ、現実に犯したことで更に凶悪な犯罪に対する心理障壁が瓦解する。
犯罪者予備軍ではなく、筋金入りの犯罪者。決して消し得ない烙印。
ところが、そうした犯罪者に罪を負わせることが非人道的であると、人権屋達。
罪という点では、その未成年の親や保護者も共同正犯とみなして良い筈。
また、「孟母三遷」の如く、より良い環境を与えるべきであるところを、その義務を怠ったことの罪を荷重するべき。
しかし現実には、子供が罪を犯しても知らん顔ばかりか、被害者を非難することすら平然とやってのける怪物親が蔓延っている。
生命に対するリスクを回避するという、集団において最低限の機能を損なうのであれば、それは集団に対する害悪として排除されなければならない。
それは、野良犬を捕獲して「処分」するよりも遥かに合理性に富み、野良猫を捕獲して「処分」するよりは比べようもないほどに合理性に富む。
例外は、高齢者や障害者を自宅で自力介護する身内のみ。
その責は、社会全体が負うべき。
未成年を中心として犯罪加害者が手厚く「愛護」されるのは、偏狭な一神教的価値観の顕れ。
協調や調和を否定し、階層のみを押し付ける支配者の都合でしかない。
食物連鎖も、その本質は物質的な円環輪廻であることを蔑ろにして、徒に上位と下位のみを強調することで、大衆に支配されることの理由付けを与え、更に、大衆以下の存在を設けることで大衆に優越感を与える。
大衆とは、そのことに疑問すら見いだせない人々。
おもい・・・あがらない
あるいは、受動的に、捕食されるか。捕食されないか。
生物である以上、それが全て。
現在では、とりわけ「先進国」とされる国々では、多くの大衆が捕食の概念を喪失している。
そうした国々においては、ヒト同士が安易に殺し合うスラム街であっても、動物を屠り、解体して、その日の糧とすることは想定外となっている。
鳥類であっても、羽根をむしられ、首と肢を切り落とされ、内蔵を抜かれた姿。
哺乳類にあっては、原形を留めない。
更には、加工されて、食品の一部として大衆のもとに運ばれる。
日々生命を屠っているとの認識からは隔絶している。
ヒトの生死すら、病院という非日常空間での出来事。
リスクを抱えながら獲物を屠ることがない。
その違和感にすら無縁。
生命の価値を喪失し、ヒト以外はモノと仮す。管理の対象とする。
支配体系から独立した存在を認めない。
それは、官僚体制やさもしい耶蘇教を含んだ中央集権的な思想の顕れ。
調和や協調を否定する支配者の理想郷。
そのような世界観を唯々諾々として受け入れた大衆が、何を以て「愛護」を語るのか。
イヌにとっかえひっかえ服を着せるのは、オトナのおままごと。
自制を欠く子供の元凶たる怪物親の欲望。
支配者は、その醜く膨れ上がった我欲を発露する一手段として、「愛護」を誇示する。
被支配者は、そうした姿に己を模して現実から逃避するために、見よう見真似で「愛護」に埋没する。
支配体系が存在しないとの欺瞞を繰り返してなぞるための道具としてイヌやネコを利用する。
如何にも「愛護」ではなく、「愛誤」と呼ぶに相応しい。
縦も横もわからないような不健康極まりない体躯のために、自力では起き上がることも歩行することも難渋する愚。
肉の一片は勿論、あらゆる食物が犠牲に上に成り立っている事実を拒絶して、その対価を支払ったことを理由として食べ残す愚。
生命の価値を知らずして、何が「愛護」か。
生命を生命として尊重せずして、何が「愛護」か。
言語を介して意思の疎通が可能な我が子すら満足に育てることができない者達が、物言わぬ生き物達とどのように接するというのか。
それは、歪んだ思い込みの押し付け。
生き物に対して「愛護」の精神を以て責任を持つとは、馬鹿げたお遊びにつきあわせることではない。
対等の存在として受け入れることなくして何を語るか。
ぶんか
砂嵐が吹き荒れた後だけに、ひと心地。
庭に水を撒く用もないので、白キジとのひとときはお休み。
天気が良い日には、玄関先で日差しを受けながら毛繕いをする白キジ。
段差を利用して椅子のように腰掛けるその姿は、些か独特。
その白キジと年中連れ立っている白黒ブチも、昨日、その姿で日向ぼっこ。

白黒ブチと白キジが姿を見せ始めたのは、3・11の頃。
それから昨日に至るまで、玄関先で寛ぐ白黒ブチの姿は幾度となく見掛けたものの、こうした姿勢は初めて。
ソファの上で、どっかとこ腰を下ろしてTVを眺める猫の姿などはマスメディア上で見掛けることはできるものの、野良猫でそうした姿勢をとる例は他に記憶がない。
白キジから白黒ブチに伝わった、(文明ではなく)「文化」か。
単なる、ネコ真似といってしまえばそれまでながら、基本的にはサル真似でしかないヒトにおける文化の伝達についても大差はない。
単なる日向ぼっこの姿勢に過ぎない?
しかし、ヒトの文化にしても、その御大層な有難さを立証できるような、より良い結果を導くためのものなんぞはどれほどあるというのか。
野良猫を飢えさせたり、強制的に施術したりするのであれば、ホームレスは?


