月と天秤

月と天秤

役者として、人間として。日々の記憶
…のようなもの。

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現代美術には、芸術や美術における既存の定義や価値観を新たに創出したり問い直したりするところがある、と感じることが多いです。
そこんとこの影響なのか、先人の価値観に頼りがちな僕にとっては認識や判断が難しく、いつも頭がこんがらかって美術館をあとにするのでした(笑)

ああでも、感性と知性は共に動かさないと錆びていくものですから、こうして考えること自体がもう刺激で、正答がなくとも問い続けることが楽しくって。
誰かと話したくなるのです!おーいっヾ(・o・*)シ



認識の話をします。
そこに在るものを、在るがままに見取って判断すること。
あるいは、在るものに内包されたものを読み取ること。
また、在るものの本質をすくいとって、応用できる普遍性に変換すること。
在るものを、根本的に異質なものとして捉えること。
そして、存在自体を受容し、判断をしないという選択。

これだけではないけど、こういう数種類の認識手段を無意識に使い分けているのではないでしょうか。
自分のなかでさえ複数の認識がある。
偏った認識の目で見ていたら、世界の一面しか知らずに生きてしまうのではないか。そんな怖さを覚えたりもします。

認識とは、無限の錯覚のような概念だと思います。
自分の「赤」と誰かの「赤」が、全く同じ赤だとは決して証明できないように。

だからこそ、認識の違いを共有することは、自己を知ることにも繋がると。

今の自分と、今の誰かの違いも。
今の自分と、いつかの自分と、
今の誰かと、いつかの誰かと、
いつかの自分と、いつかの誰かの、その差異も。
近づいても、埋めきれないことが大切なのだと思います。

うーん。
なんだか、当たり前のことを言っているようですね(;´∀`)
この辺にしておきましょう。