大人が大人に大人の事情
5分遅れで壇上に姿をあらわす
ウエーブ激しい黒髪の男前は
金だか銀だか怪しげな光沢を放つ装束を身に纏う
マイクを取るその男前は指揮者に目配せし
人を惹き込む得意の笑顔で白い歯を輝かせる
そして背後の楽団を音を奏でだす
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2025年6月14日土曜日
石丸幹二オーケストラコンサート2025
オリックス劇場
鑑賞日記
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主役が5曲を歌い上げると
お目当てのゲストが呼び出される。
我らが濱田めぐみの登場である。
まずは雑談に近い会話が始まる
共演は四季で2作 四季後に3作
と異国の丘を忘れてますやんで計6作
長い付き合いも少ない回数
来阪も多く落ち込んでいる時に
叱咤激励してもらった懐かしい思い出
石丸幹二の記憶 初めての出会いは
審査員として参加したオーディション
点数をつけれぬ審査員・・とひとボケ
そしてとんでもない歌声に驚愕したこと
それに濱田めぐみが尾鰭をつける
歌い終えると浅利慶太に呼び出され
オペラ座のスィンクオブミーを歌え
いえ私歌えません
いいから適当にやってみろ
結果適当に歌ったエピソード
デュエット 二人の歌声は我々を魅了する
ソロ 濱田めぐみはひとりでも我々を魅了する
でも大人は大人が大人に大人の事情を察する
舞台上 数々の熱唱に感嘆するも
本当に聴きたい曲は聴かせてもらえない
大人しくしておけでは洒落にならない
帰宅するとプライムビデオでウィキッド
目に映るエメラルドシティにまたもや涙が
大人の事情がないならば大人は大人でいる必要がないのだろう
善人は海を潜り空を舞う
0673
作品:Mission: Impossible - The Final Reckoning
公開:2025
監督:クリストファー・マッカリー
出演:トム・クルーズ、ヘイリー・アトウェル
5ポカ:★★★★★
毎晩のように映画を鑑賞すれば、
巡り合うのはB級が殆どです。なので、反対に
超A級は感覚的に掴める自負があります。
全編を通して懇切丁寧に制作され、
長い歳月に培われたノウハウを屈指し、
独りよがりでなく、観る側への愛に溢れています。
これまた長い歳月を経てきた創作において、
大半のシチュエーションは出尽くした中、
新機軸を産み出すのは難産以前の話でしょうから、
如何に観客を魅了するかは、
とてつもなく難易度の高い仕事であり、
それを現代で実現してしまうこと奇跡だと思うのです。
そうです、この長い前置きは、
今夜、そんな奇跡の映画に出遭ったことを示します。
トム・クルーズなる善人に出遭ったことを示します。
3時間に及ぶ長い本編を
飽きさせぬどころか息をつかせぬまま、
大団円へと誘う技術は脅威でしかありません。
これこそエンターテインメントなのでしょう。
我々を楽しませることに心血が注がれた本作に
拍手を上回る熱い涙が頬を伝いました。
ハプスブルク家の怪人
崇高なる愛、そして、痴情の縺れ・・・
どうにも私は、これらが動機となる物語が耐えられない。
更には、そのヒロインを一幕で亡きものにする驚き。
休憩時に隣の配偶者に驚きを漏らすと、
「じゃあ、死んでないんじゃない」
ならば、プロローグの葬式は誰を見送ったのか?
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2025年4月12日土曜日
イリュージョニスト
梅田芸術劇場 昼公演
観劇日記
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オペラ座の怪人・・・悪者ぶってるが、
彼はただのやきもち焼きでしかなく、
その烈情がシャンデリアまでぶっ壊す異常性。
イリュージョニストも途中、
皇太子が主役じゃん・・・と、
舞台の表裏にオペラ座が被り出してくる。
演者込みで皇太子が一番素敵に映るのは私だけか。
増大する嫉妬心は、立場的にも余りに小さ過ぎて、
溢れ出て余りある“悪”が勿体無いと感じるのは私だけか。
そう、皇太子の悪も、奇術師の正義も、
元は痴情の縺れでしかなく、大上段に構えるものではないから、
仕掛けが大きければ大きいほどこじんまりとなる。
主要なる演者いずれも外れの無い、
いやアタリばかりのキャスティングもそうそうなく、
それが余計に虚しく、ついには大団円を迎える。
しかし皇太子の悪が、さほど悪で無かったことを知った我々は、
奇術師、更には令嬢の正義までもが正義でなくなったことに、
本当に大団円なのかと釈然とせぬ憂いが尾を引く。
何もそこまでムキになってそこまでひねくれて鑑賞せずとも、
素直に音楽と舞台演出、そして演者のパフォーマンスを
絶賛するだけで良いのに、偉そうに素人が批評する始末。
結局、始終「勿体ないなぁ」ばかりだったのが、
この論調になる訳で、観劇動機である濱田めぐみは、
すこぶる健在で、めぐ節全開のオタには堪らぬパフォーマンス。
おそらく、歌い上げる楽曲のどれもが、
一番心底に届く音域の旋律ばかりで、贅沢の極み。
けれど、すれた私は必然性まで求めるから救いようがない。
だが、それもこれも開き直る。
決して安価でない観劇料を支払って鑑賞している訳で、
感じたことを漏らしたとて、ばちは当たるまい。
おそらく人生最後
7月で千秋楽を迎えるウィキッド
本日の鑑賞がおそらく人生最後だろう
そう思って劇場に向かった
センターではないが後方で
舞台の天地とかみしもが視界に納まり
改めて舞台演出の妙を噛み締める
東京大阪と数えはしないが何十回と
足を運び愛し続けたこの音楽劇も
最後が江畑氏であること感慨深い
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2025年3月20日木曜日
ウィキッド
大阪四季劇場 昼公演
観劇日記
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一種のファンファーレと云えるイントロ
重厚かつ荘厳なそのしらべは
一瞬にしてこの摩訶不思議な世界へ誘う
下手高いところから現れるグリンダ
奇天烈な乗り物に今更驚くこともなく
律儀に吹き出るシャボン玉を確認する
そしてシズ大学は彼女たちの出逢い
中央から登場するエルファバにまばらな拍手
何の名残か以前は拍手合戦にまでなっていたシーン
お互いに嫌う歌と踊りの秀逸なこと
あれを生み出す側にたってみたならば
容易くないことは想像に容易い
そして私的に一番大事だと想う“動物はしゃべるな”
未完ながらもスピンオフまで浮かんだこの場面も
見事に馴染み易い旋律に乗って会話がつづく
フィエロの登場はポピュラーまでのメドレーで
ネッサとボックの異常な関係にエルファバとグリンダの友情と
全編の骨格を織りなす洗練されたワンカットとなる
一幕の転換となるエメラルドシティとは一体何なのか?
エルファバの緑が先なのか街の緑が先なのか
これほど舞台を転調してしまう演出はそうそうあるまい
遂には大空高く舞い上がるエルファバ
3つの角と3辺は形を変えず安定し舞台を3次元に謳歌する
改めて四季の日本語訳は狂おしいほど素晴らしい
二幕は端折って迎えるフィナーレ
それはまたプロローグへ繰り返すのだが
積み重ねた表情と深いメロディがここまで鑑賞した観客とリンクする
おそらく私の人生最後であろうウィキッド観劇が幕を閉じる
こんなにも中毒性を持つ壮大な音楽と明暗に際限の無い装飾
舞台の舞台たるそれを極めた演出と繰り返しても足りぬ素敵な日本語訳
更には何よりも不完全で理不尽不条理を貫ぬくストーリー
すこぶる丁寧に始まりから終わりまで鑑賞し
私のウィキッドは本日の公演を持って納得の最後を終えることができた
とても素敵な本作を堪能しかつ感謝し劇場を後にする
・・・
の筈なのに何かひとつ、いや、ふたつ足りない
私が求めるウィキッドにピースがふたつ足りない
誰に何と云われようがふたつ足りない
どんなにウィキッドが素晴らしい舞台であっても
濱田めぐみと沼尾みゆきのふたつが足りない
決して本日の演者が悪いのではない
技術的なら私が望むふたりよりも遥かに凌いでいるかもしれない
でもそういうことではないんだと思う
グリンダで云うならば今のそれは優しすぎる
優しい・・というのは優しさではなくサービス精神のことで
グリンダアピールが度を越している
エルファバで云うならば今のそれは器用すぎる
蔑まされ続けてきた人生は苦悩の連続だった筈で
エルファバが最初から成長しきっている
“魔法使いと私”の今まで味わったことのない存在価値
“自由を求めて”での躊躇いと重力を解き放つ葛藤
“闇に生きる”の完全なる悪い魔女への昇華
エルファバとグリンダの半生を謳う物語
彼女たちの成長もまた話の軸となるもので
彼女たちの変化は短い時間の中で劇的に移りゆく
彼女たちの目まぐるしい進化を教えてくれたのは反対に
濱田めぐみと沼尾みゆきであって
更なる深みを本作に与えてくれたといっても過言ではない
おそらく人生最後となるウィキッドを鑑賞して想うに
愛してやまない本作も本当に愛しているのは
濱田めぐみ沼尾みゆきが演ずる舞台なんだということ
絶賛上映中のウィキッドにイディナとクリスティンが出演する
アメリカへの羨ましさはこういった文化へのリスペクトである
ならば日本語吹替に濱田沼尾起用の尊敬があっても不思議でなかった
ところが案の定訳のわからぬ登用
しかも詩的センスの欠片もなかろう日本語訳
食わず嫌いで観よう聴こうともしない私自身タチが悪い
話は逸れたが映画にまでストレスを感じた
おそらく人生最後であろうウィキッド鑑賞
濱田めぐみ沼尾みゆき再演なら月賦が必要な額でも観に行くのに
有耶無耶な想いを残したまま墓場へ向かうこととなる
おそらく人生最後であろうウィキッド鑑賞
そう、おそらく人生最後となるウィキッド鑑賞であった
緑色の魔女と黄色い煉瓦
0672
作品:Wicked
公開:2025
監督:ジョン・M・チュウ
出演:シンシア・エリヴォ、アリアナ・グランデ
ジェフ・ゴールドブラム、ミシェル・ヨー
5ポカ:★★★★★
舞台のウィキッドを愛する人にとっては、
映画化されたこの作品は満点じゃないでしょうか。
3時間の拘束、それなりの覚悟を持って映画館へ足を運びましたが、
あっという間にエンディングを迎えました。
あの素晴らしい舞台演出をどのような映像演出にアレンジし、
われわれへアプローチしてくれるのか、
先に述べたとても長い上映時間も合わせ興味津々で鑑賞しました。
全編、ひと言で云うならば、リスペクトです。
演者も含めた作り手の全てが、ウィキッドへの愛に溢れています。
特にガリンダのガリンダに対する敬愛がとんでもなく、
アリアナ自身の美しさも相まって、
完全なるウィキッドの世界観を醸しだしています。
ハズレのシーンを見つけるのは難しく、
いずれの曲と演出も、完成度を極めた映像美に仕上がっています。
そうです、いずれの楽曲も熟知しているので、
映画としての進化が、改めて私のウィキッド愛を昇華させてくれたのです。
ただ、決して味わうことが不可能である疑問を感じました。
それは、ウィキッドそのものが初見の人には、
どのように響くんでしょう?
どんな評価になるんでしょう?
プロローグから押し寄せるSFでもファンタジーでもなく、
はたまたいつの時代を謳っているのか皆目見当のつかなさ。
そして、劇中会話の殆どが旋律の上で行われ、
違和感なのに違和感がないスクリーンいっぱいの踊り。
確かにミュージカルのひと言で片付くやもしれませんが、
その敷居たるや普通には跨ぐことが出来ないんじゃないでしょうか。
そうなると、その人たちにとっては、
まったく面白くないとなっても不思議ではない・・思った訳です。
かたや満点の評価者が、
かたや零点の評価者が存在するであろう本作を想うに、
改めてウィキッドの奥深さを噛みしめながら帰宅の途についたのでした。
よろしいおますなぁ
心の中、関西弁丸出しの私が、
「やっぱし、よろしいおすなぁ」
「やっぱし、よろしいおすなぁ」
しみじみと反復を繰り返す。
更には、涙腺の緩い私が突然現れると、
止め処もない涙を流し、泣きじゃくる。
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2023年11月3日金曜日
ウィキッド
四季劇場秋 昼公演
観劇日記
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やはり、このウィキッドは、
私の知るミュージカルの中で最高峰の作品である。
しかも、他を寄せつけず突出している。
久しぶりの観劇・・・
この久しぶりは、本当にどれだけの歳月を重ねたんだろう。
しかし、何度も何度も目や脳裏に焼き付けたその舞台は、
久しぶりにもかかわらず、以前を上回る感慨を与えてくれる。
甦り、躍動、感心、感動、興奮、嗚咽、
茫然自失、安心、不安、軽蔑、羞恥心、妙な説得力、
天地左右あらゆる方向に揺さぶられる私の感情は、
冒頭のひと言・・・「やっぱし、よろしいおすなぁ」に集約される。
そして、3時間を要すとても長い演目は、
とても短い体感時間でフィナーレを迎える。
エメラルドのボトルが二つ揃ったところでオチているのに、
荘厳かつ狂おしいほどの悲哀を魅せるエンディングは、
不思議な説得力を放ち、彼女たちの行く末を明るく醸し出し、
えもいえぬ爽快感をわれわれに与え、幕を閉じる。
そう、別に何かが綺麗に解決した訳でもないこの物語の帰結に、
私は何を取り込まれているのか、
歳を重ねても理由は見つけられないのだが、
それ自体が、中毒の如く繰り返す感慨の一番の理由なんだと思う。
主演は濱田めぐみ
主役は弟・・・この一言に尽きる。
自称めぐファンの私は、
途中からずっとこの感想しか浮かばなかった。
2021年4月24日土曜日
アリージャンス〜忠誠〜
梅田芸術劇場 昼公演
観劇日記
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弟の一挙手一投足が物語の手綱を取る。
哀しいかな姉のそれに重きが無い。
すなわち役柄として存在価値を見出せない。
ツレは出ずっぱりを素直に喜ぶが、
捻くれ者の私には、観劇動機と、
主演でない実態にストレスが募る。
心に響き過ぎる歌声は、
メッセージ性を失っている時点で、
溢れんばかりの虚しさに空回りをするばかり。
屈折しためぐファンの琴線をくすぐる
そんな作品に出逢うのは、
おそらく奇跡なんだろうと達観に近い境地。
ならば、自分で・・・と勇み足も、
造り手のニーズに合わずで、
優しい世界ではないと絶望の境地。
久しぶりの濱田めぐみは、
お尻が大きくなったのでは?・・と、
別のめぐおたに確認事項を得た私は劇場を後にした。
雲雀と濱田めぐみ
劇場の緞帳が開くと、
またもや重力を打ち負かす
新たな濱田めぐみに出逢うことができた。
しかしこの濱田めぐみに苦悩はない。
多少の主観はあれど、
立ちはだかる壁や軋轢は微塵も介さない。
2018年6月2日土曜日
メリー・ポピンズ
梅田芸術劇場 昼公演
観劇日記
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メリー・ポピンズの傍観者たるや
濱田めぐみによって我が意を得たりで、
主役でない主役を見事に演じ切っている。
長い月日を経て濱田めぐみは、
ようやくハマり役に巡り会えたんでなかろうか。
歌唱にパンチ力は見い出せないが、
そもそもこの演目がそれを求めておらず、
器用さなど諸々気をつける点は多かろうが、
何よりも主役の俯瞰で見る眼差しを
如何に表現するか・・・そのひとつに尽きると
濱田めぐみから感じ取ったのだが。
終盤、マイケルの告白を受け流すメリーの淡白さと、
バートからメリーへの「さよなら」の淡白さに
繰り返してきた彼女の使命を想い、違う淋しさを覚える。
今回の主役となった家族の一喜一憂と、
橋渡し・潤滑油に徹するバートに、
終始淡々と俯瞰を貫ぬくメリーの存在は、
奇天烈で前衛的な世界観も含め、
この世の広さ深さを優しく楽しく教えてくれる。
コリーの店のシーンの無駄加減たるや
一体何が常識なのかまともには理解できない。
それでいて観客は抵抗もなく受け入れており、
涙腺の反応が異常な私は、
そこで大粒の涙を幾つか落としてしまい、
意味のない言葉に意味を見い出すことができた。
これぞ音楽劇と呼べる音楽劇を
久しぶりに観劇することができた思いである。
これもまた濱田めぐみに尽きる。
卵と鶏の後先で云うならば、
この難役をいとも容易くパフォーマンスする
濱田めぐみが先に在りきと決まっている。
有意義で幸せな時間の余韻に浸たりつつ
劇場を後にした。

