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☆♪ブラックジャックの気ままな日記♪☆

(1ブログにいいね!は1回/日だけ) ブラックジャックの想うがままの徒然な日記

 

 

 

今日もほぼ定刻通りにサイクリングへ、10時前後ぐらいに天気雨みたいなものがあって15分間ぐらいかな、ただ大雨でもなくて、身体に濡れるけど然程気にならないレベル。

 

園芸屋さんでは、正月飾りのスペースが増えていたのと、今朝の趣味の園芸ではポインセチアが特集されており、当該園芸屋さんも映ってましたw

昨日園芸屋さんの店員さんと少しお話をしたのですが、大きな葉牡丹があって(直系30センチオーバー)、お客さんのニーズがあって取り寄せていたみたい。紫色とノーマルの緑色で計6つ。これぐらいのサイズになると上からも土にも水分を与えないとね!との事でした(おそらく乾燥シーズンだから葉っぱにも与えるという意図と認識)

(。´・ω・)ん?、、、本当かな?とも思ったのでググると
 

【鉢植えの場合は、表面が乾いたら株元にたっぷりと水やりをします。 庭植えの場合は、特別な水やりは不要です。 生長期は水やりの際、液体肥料を混ぜると手軽に追肥できます。 ※午前中に水やりを行うようにしましょう!】

更に【葉の間に水がたまると腐ることがあるので、水やりは必ず株元から】





今日の最高気温予想は17℃、結果18.4℃
 

明日の天気予報
日本の天気予報:各都市の気温と降水確率

 

 

 

 

デンマークカクタス

 

デンマークカクタスの白い花

 

 

コノフィツム

コノフィツム、多肉植物の成長

 

ハオルチア

ハオルチアの葉の縁が白く透明な多肉植物

 

ハオルチアのパッチワークプランツ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クロード・モネ『ベンチに座るカミーユ・モネ』1873年   メトロポリタン美術館(The Met,MET)及び歴史的背景

 

モネ作『ベンチに座るカミーユ』印象派庭園画

 

 

クロード・モネ『ベンチに座るカミーユ・モネ』(1873年)についてクロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926)の作品『ベンチに座るカミーユ・モネ』(原題:Camille Monet on a Garden Bench)は、印象派の代表的な画家であるモネの珍しい肖像画・ジャンル画の一つです。この作品は、モネの妻カミーユ・ドンシオー(Camille Doncieux, 1847-1879)を描いたもので、1873年に制作されました。

 

以下で、作品の詳細、メトロポリタン美術館での所蔵状況、そして歴史的背景を説明します。



作品の詳細


タイトル: Camille Monet (1847–1879) on a Garden Bench(日本語訳:庭のベンチに座るカミーユ・モネ)
 

制作年: 1873年


技法・サイズ: 油彩、キャンバス、60.6 × 80.3 cm


内容の描写: 画面中央にカミーユが庭のベンチに座っており、鮮やかな花々が咲き乱れるアルジャントゥイユの庭園を背景としています。カミーユは黒いドレスを着て花束を抱え、穏やかだがどこか憂いを帯びた表情を浮かべています。彼女の右側にひげを生やした男性(おそらく訪問者)が寄りかかり、後ろに女性のシルエットが見えます。この構成は、モネの印象派的手法で、光の揺らぎや色彩の鮮やかさを強調したもので、日常の瞬間を捉えています。モネの作品としては珍しく、人物の心理的な深みを匂わせる「謎めいた」一枚と評されることが多く、批評家からは「モネの作品群の中で最も不可解で不安を誘うもの」との声もあります。


スタイル: 印象派。モネは光と色の変化を即興的に描く技法を駆使し、細部をぼかして全体の雰囲気を優先しています。この作品は、モネの風景画中心の作風の中で、家族をモチーフにした貴重な例です。

この作品は、モネの他の庭園画(例: 同年に描かれた『カミーユとジャン、乳母と庭で』)と対になるペンダントとして制作された可能性が指摘されています。

メトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art)での所蔵と展示所蔵美術館

ニューヨークのメトロポリタン美術館(通称:The Met)。同館は世界最大級の美術館で、19世紀ヨーロッパ絵画部門(Gallery 818付近)に常設展示されています。モネの作品は同館に多数所蔵されており、この絵は印象派コレクションの重要な一部です。 


収蔵の歴史: メットは1870年に設立され、モネの作品を積極的に収集してきました。この作品は、モネのアルジャントゥイユ期を代表するもので、美術館の印象派セクションで人気の展示品です。オンラインカタログ(Met Collection Search)で高解像度の画像や詳細な解説が公開されており、誰でも閲覧可能です。 

 メット全体では、モネの他の有名作(例: 『睡蓮』1899年や『積みわら』1891年)も所蔵され、印象派の流れを体感できる配置になっています。 

訪問のポイント: メットはセントラルパーク近くに位置し、入場料は推奨寄付制(大人約30ドル)。この作品はヨーロッパ絵画ギャラリーの2階にあり、フェルメールやゴッホの作品と隣接して展示されることが多く、印象派の文脈で楽しめます。COVID-19以降、予約制のオンライン予約が推奨されます。

歴史的背景

この作品は、モネの人生と印象派運動の転換期に位置づけられます。以下に主な文脈をまとめます。

モネとカミーユの関係: モネは1860年代初頭にモデルとして出会ったカミーユと恋に落ち、1867年に長男ジャン(Jean)をもうけました。1870年に正式に結婚しましたが、当時はモネの経済的苦境から苦労を重ねました。カミーユはモネの多くの作品のモデルとなり(例: 『印象・日の出』1872年)、この絵でも彼女のポートレイトが中心です。しかし、カミーユの服装(部分的に黒いドレス)は、1873年9月22日に亡くなった彼女の父シャルル=クロード・ドンシオー(Charles-Claude Doncieux)の死を悼む喪服と解釈され、作品に哀悼のニュアンスを加えています。一部の研究者は、制作時期を1874年春頃と推定し、花束も喪のエチケットを象徴すると指摘します。

 
 カミーユ自身は1879年に32歳の若さで病没し、モネの創作に大きな影響を与えました。

アルジャントゥイユ時代(1871-1878年): 普仏戦争(1870-1871年)でパリを追われたモネは、セーヌ川沿いの郊外アルジャントゥイユに家族で移住しました。この家賃の安い家(年1000フラン程度)の庭園は、モネの創作の宝庫で、約2000平方メートルの広大な敷地に花々が植えられ、多くの庭園画が生まれました。この作品は、その庭を舞台に、モネの「最近の裕福さ」を示すものとして描かれたとされます。1873年は普仏戦争後の復興期で、モネの経済状況が改善(画商ポール・デュラン=リュエルの支援)し、印象派の技法が成熟した時期です。 

 モネはここでルノワールやピサロらと交流し、屋外制作(プレーン・エア)を推進しました。

印象派運動の文脈: 1873年は、翌年の第1回印象派展(1874年)の準備期で、モネはサロン(公式展覧会)から離れ、独立展を目指していました。この作品のファッション要素(カミーユのドレスは1873年春の雑誌『La Mode Illustrée』に掲載されたスタイルに似る)は、当時のブルジョワジーの生活を反映し、モネの「現代的な日常」を描く意図を示します。一方で、男性の存在は「浮ついた会話」を連想させるポピュラーイラストの影響を受け、作品の謎を深めています。 


 印象派全体として、モネはこの頃、光の効果や色彩理論(化学者ミシェル・オージェーヌ・シュヴルールの影響)を探求し、後の連作(例: 積みわら)へつながります。

 

 

ふとモネって失明危機があったよね、、、何時だっけ?と思って調べると

 

クロード・モネ(1840-1926)は、印象派の巨匠として知られ、特に晩年の睡蓮シリーズで有名ですが、晩年に白内障を患い、視力の低下が深刻な問題となりました。完全に失明したわけではなく、ほぼ失明寸前まで視力が悪化した後、手術を受けて視力を部分的に回復しました。白内障の経過モネは1912年頃(72歳)に両目の白内障と診断されました。症状は徐々に進行し、1922年頃には右目は光の感知しかできず、左目も視力0.1程度まで低下し、法的失明状態に近づきました。白内障の影響で、世界が黄色く濁って見える「黄視症」が起き、青や緑などの寒色が識別しにくくなり、赤・黄色・褐色などの暖色が強調されました。また、細部がぼやけ、形態が曖昧になる症状も現れました。これにより、モネは絵の具のチューブにラベルを貼って色を識別するほど苦労しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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バスケットボールの日(12月21日 記念日)
バスケットボール解説者の島本和彦が提唱し、「12月21日はバスケットボールの日!委員会」が2011年(平成23年)より実施。

1891年(明治24年)のこの日、アメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクール(現:スプリングフィールド大学)で、この年考案されたバスケットボールの初の試合が行われた。記念日はバスケットボールの普及発展を目的としている。

バスケットボールを考案したのは、カナダ出身の体育教育者ジェームズ・ネイスミス(James Naismith、1861~1939年)であった。それはスクールの体育学部長から「冬季に、室内で、誰でもが楽しめるボールゲーム」というコンセプトで新しいスポーツを考えてほしいという提案があり、それを実現化したものだった。

ネイスミスの考案したバスケットボールは、ラグビー・サッカー・ラクロスがヒントになっているほか、ネイスミスが少年時代に近所の子供たちとした遊びの要素も盛り込まれていた。その遊びは物を置いてそれに石をぶつけるというものだった。

1891年のこの日、スクールの授業でこの競技を初めて行う時、たまたま手に入れた桃の籠(かご:basket)を体育館内のバルコニーの下に据え付けてゴールとし、サッカーボールを使って1チーム9人で行われた。競技は学生の案により「バスケットボール」(basketball)と名付けられた。