そよ風が湿っぽいさを含んでしまい、何かに押されている感覚がする。なんだかんだ5月でそして梅雨入りして夏がくる。今日みたいな雨の日には、車のタイヤがアスファルト染み渡った雨水をかきあげて、そのペチャついた音が、よく目立つ。そのかわり、烈風隊の排気の雄叫びが鳴らないぶん静かではあるのだが。


重量感のある本棚の間に挟まれた位置に机があり、一日の大半はそこに体がある。

日々の惰性は、その言葉通りこれからの日々についても引きずられていくものであるという事を感覚的によく感じるようになってきている。

これからの日々が摩擦のない日々になってしまえば、惰性は留まることなく続くのだろう。摩擦は実在しなければならない分けではなく、摩擦と感じるような感覚を研ぎ澄ませなければならない。

惰性で転がり続けるのは悪いことなのか。悪いわけではない。ただやみくもに転がり続ける事について述べているのだよ。

さあ。見てごらんよ。君の目の前には、携帯電話と自分の親指が見えていて、そして、その親指は四方八方にノミのように跳ね回っているだろ。

これもまた、ひとつの世界なのだよ。

男としてもの申すなら、男でよかったと思えるような男らしさが持つことが男としての宿命だぜ!!
どことなく漂うあのイメージはいつかの振り返った事も思い出そうともしたことのない遠い過去にいたあの場所だった。

その過去に感じた感じが、たまたま違った場所で感じたことがいっきにそのイメージを想起させた。

妙な(妙なのか?)事に、その感じた感じを感じた感じは消えてしまったのに、イメージだけは今も残っている。

同じ感覚でも喜びや恐怖を感じる感覚と、イメージなどを感じる感覚ってのが違うのかもしれない。イメージのほうが喜びや恐怖の感覚よりも、その感じた似たような感覚として味わうことができやすいのは、何か違うところがあるからなはずだ。
約1ヶ月くらい前に書いたしっくりしなかった文をそのままのせて、最近、文を読み直してみるとしっくりしなかったところが解けたんで、その内容を追記して載せることにした。それによって、いいたいことに対してのかけたウエイトが前と後ろとで違うから本当はバランスを直すべきなんだろうけど、前の文のもつ心の興奮を残したいということでいじらないようにした。でもまあ前の文を導入として見ればものすごく綱がっているようにもみえるのが不思議がある。


ドラゴンクエストで村の外を歩いているキャラクターが、戦闘になると左上に表示された文字で現されるけど、それがそのように分かるための何かしらのルールがあって、それを理解?してからようやくその文字に対応しているキャラクターがいる事が分かる。このルールも一つの「見えないもの」。そして、表示されたキャラクター、表示された文字そのものは「見えるもの」。

まさにホロメキの言うようにこういう操作を無意識で当たり前のようにしてやってる事なんだと思う。

さっきのドラゴンクエストのルールみたいに「見えるもの」からキャラクターと文字を一致させる「見えないもの」発見する力っちゅうが何かしらのためにという価値と目的を帯びる事によって、その限りにおいてのフレーム作りとなる。文字とキャラクターが一致し、ドラゴンクエストの場合、キャラクターが戦闘していることが味わえるフレームが出来る。

もし、「見えるもの」表示されたキャラクターと文字が変わってしまった時、それによって「見えないもの」としてのルールがによってキャラクターと文字が一致するという事ができなくなれば、どうなるのだろう。

これは、ドラゴンクエストに限った事ではなくて日常的にも起こりうることだ。

例えば、窓と窓の枠を見ていてそれが蝶に見えたが、窓を開けてみると見えなくなること、光の入り具合で見える写象が色んな形に変化すること。類似したものを類推している。

のっぺりとした表情を作り出す写真家は、これらを拡張している。個々の表情を捉えようとする事を先見的なフレーム作りによって当て嵌めるという行動をしている。

結局、見えるものだけで見ていないということなんだ。拡張して言えば、見たいように見るんだろうな。



追記

類似性のあるもの発見し、それを繋ぎ合わせる作業によってフレームが出来るのであるが、そこに、自分にとっては類似性が発見できない、あるいは、今まで作りあげてきたフレームを歪めてしまうようにストレスを感じる場合がある。

これが我が城という架空の建物であることを受け入れるべきであるか、それとも、我が城を再構築するかという点での話になるんだろうけど、それより、このフレームの話をオートポイエーシス的システムで説明すると、いわゆる自己言及というカタチで返ってくると言える。

ちょっと違う比喩になるけど、青い粘土こねてて、そこに違う色の粘土が少しでも入ると、全体に色が馴染んで同じになるまで恐ろしく面倒な場合があるみたいな感じ。学習している時もたまにこれに似たような事があるとかなりしんどい。

追記前の見たいように見るという部分は無意識について述べていたけれど、おいおい考えてみると、意識して見たいように見る努力を無意識にしているということをしているはず。

だから、写真家さんは、見る努力を無意識している事をしていて、それに影響を受けたフレームを持っていることになる。ただ技術的な職人じゃなくて感覚的な部分も職人という事だ。写真家以外にも創造することをしている人は、見せ方、提供するものの創造、どちらも研鑽し続けることでとてつもない領域へ達していくんだろうな。いろんなしがらみをぶち抜いて表現されたものを、そして、それを見る側の方も、いろんなしがらみをぶち抜いた時どうなるんだろう。それってもしかすると人間である事を放棄することになるのかもしれん。

何かあるとするから何かあるとなるんだからな。