その視線に初めて気づいたのは数日前だった。

 辺りを見回したが、それらしい者の姿はない。気のせいだろうと思ったが、視線を感じる頻度は日ごとに増した。しかもそれは、ただの視線では無い。怖気が走るほど冷たい、殺気すら孕む矢のような気配だ。
 視線は人混みだろうと裏路地だろうと、ところも時も選ばず襲ってきた。一瞬も絶えることなく背中に突き刺さってくる。堪らず、佐野良太は人ごみで立ち止まった。辺りを見回す目は血走っている。行き交う人々の中に良太を見ている者はいない。誰とも目など合わない。皆が自分の用事に向かい、表情なく歩いている。耐えきれず、すがるように良太は先週末の夜を思い出した。予期せぬ旧友との再会だ。その笑顔は確かにひと時の救いだった。



「佐野はさあ、その後どうしてた?」


 逢沢里奈は中学時代と変わらない屈託のない笑顔で訊ねてきた。変わったのは控えめだが自然な化粧が板に付いていることだけだ。


「どうって」


 上目遣いに里奈を見た。《怖そうに見えるから、それやめた方が良いよ》と同級だった頃言われたことがあった。無口で、友人と呼べる者のいない学校生活だった良太に、里奈は不思議に思えるほどよく話しかけてきた。
《佐野はホントは優しいんだしさ》と言った笑顔は生涯忘れないと思っていた。その笑顔が八年の時を隔て、再び良太の前にあった。
 雑踏で先に気づいたのは里奈の方だった。声を掛けられた良太は驚いたが、時間があるからとオープンカフェに誘ってきたのも里奈からだった。


「大学終わった後は営業してたよ」
「ふうん、何の会社?」
「建設関係」
「家とか売るの?」


 良太は首を横に動かした。


「もっと大きな物」
「たとえば?」
「売るっていう意味じゃないけど、公共施設とか。だから相手は自治体がほとんどだった」
「だった?」


 良太は少し考え、言いづらそうに呟いた。


「会社が潰れたからさ」
「そうなんだ…大変だったね」


 その頃の騒ぎが良太の脳裏に蘇る。思い出したくない記憶ほど忘れないというが、良太も同じだ。


「やっぱりあれ?不景気とか」


 良太は困り顔で言葉を探した。普通ならば細かいことまで訊いてごめん、などと言いそうなものだが、里奈は澄んだ瞳で答えを待っていた。下世話な興味――などと良太は思わない。里奈はいつも純粋で自然体だった。そこに惹かれていた自分を思い出す。だが、告白などしたことはない。モテる里奈なので、コクられたなどという話は耳にしていたが、地味を自覚する自分はそういうタイプでは無いと思っていた。クラスでも、居るのか居ないのか誰も気にも留めない存在が自分だと思っていた。


「社長が死んだんだ」


 里奈は一瞬顔を曇らせた。だがその表情もすぐに笑顔の裏に消えていった。ただ、言葉はすぐに出なかった。


「それは……」


 詰まった里奈に苦笑を見せ、良太から言った。


「家族経営だったんだけど、結局は――」
「跡継ぎとかいなかったの?」
「いたよ。一人息子が専務やってた。けど」
「けど?」
「もう縁もないから言えるけど、飾りみたいな男だったよ。たまに会社には来るけど、すぐ帰るんだ。忙しいのは夜だけ。飲み歩くんだよ。会社のカネでね。仕事を取ってくるとかならまだ判るけど、飲むのはいつも一人で、行く先はお気に入りの女がいる店だけ。それも何店もあったんだ。どうしようも無い奴で使えないんだけど、社長が溺愛してたからさ」
「あるあるだね」
「どうなんだろう。他の世界をあまり知らないからなんとも言えない」


 互いに言葉を切った。里奈との再会は僥倖だ。出来るならまだ話していたい。話題が途切れれば、じゃあねと言われるかも知れない。


「あ……逢沢は?」
「え?私?」
「今は何してるのかな……とか思って……」


 里奈は少し考え、自嘲気味に言った。


「面倒くさい仕事。仕事内容だけじゃなくて、上下とか礼儀とかね」


 なに関係かは言わないが、良太は頷いて見せた。


「大変そうだな」
「でもまあ好きで始めたしね」
「いいな、そういうのがあって」


 呟いた良太から里奈はわずかに視線を逸らした。


「そこを辞めたあとって、なにしてたの?」
「職探ししながらバイト。でも、長くやったのはないんだ」
「遊んだりは?会社勤めじゃなくなったなら旅したりとか出来るじゃない?」


 良太は苦笑いを見せ、手を顔の前で振った。


「お金がないよ!そんなゆとり、あるわけない」


 それを黙って聞き、里奈はスマホを見た。


「さて、そろそろ行かなきゃかな。佐野に会えて良かったよ。最初は声かけるか迷ったんだ。人違いって事もあるし――。でも、声かけないで後悔するのもなって思ってさ」
「へ…え?それは……」
「帰らないと上がやかましいんだ」


 人差し指で頭に角を作り、里奈は手を振って去って行った。後に残された良太は里奈のコーヒーカップを見つめた。中学生だったころ、こんな風に二人で語らう事をどれほど夢見たかわからない。教室にいても、誰も自分に声を掛けてこなかったことを思い返す。イジメではなく、それが当たり前な日常だった。自分の周りに新鮮なものは無く、自分の吐いた空気が淀む水槽の底の様に感じた。そんな良太だけに、里奈は救い以上の存在だった。話しかけてもらえる時だけ、そこには新鮮な風が吹き込んできた。


「じゃあ、またな――」


 誰もいない席に向かい、言えるはずも無い言葉を呟いて自分の手を見た。


「言えるわきゃない」


 その先は言葉にせず飲み込み、一口も飲んでいない自分のコーヒーを見た。


――こんな人殺しに、言えるわきゃ無い……。


 良太は震える手を見て思い返した。
 勤務していた沖船建設の社長・沖船栄太郎を良太が殺害したのは五年前のことだ。その時点で良太は沖船建設の社員であり、しかも栄太郎の信任厚い若手の有望株だった。栄太郎は常々周囲に対し「佐野は伸びる」と話していた。
 その栄太郎には良太よりも二歳年下の新一郎という一人息子が居た。沖船建設専務のポジションだが、社内のみならず取引先の評判も芳しくなかった。遊びにばかり熱心で、栄太郎の甘さを良いことに研鑽の一つも積まず、好き放題の放蕩息子――という専らの評判だった。この二人に、良太は激しい殺意を抱いていた。理由は良太の母親である槇子だ。良太も言葉を失うほどの驚愕の事実を知ったのは、槇子が交通事故死し、大学を休んで葬儀に戻った時だった。


「沖船のせがれは、お前の弟だ」


 喪主を務めた祖父・光之は槇子の遺体を前に良太に言った。


「元々お前の父親、孝弘は沖船の社員だったんだ。知っていたか?知らんだろうな。槇子もその辺のことは話していなかったはずだし。何故かって?そりゃあ知られたくないさ。沖船栄太郎に騙され続けた人生なんか、お前にだけは……」


 光之は悔しげに棺の槇子を見つめた。


「孝弘は本当に才覚のある男だった。切れ者という奴だ。いちを聴いて百を知るとか言うだろ?そんな男だったんだ。槇子と結婚する以前の話だから、これは後々になって槇子から聞かされたんだが、沖船は孝弘を高く評価していたそうだ。ところが、入社して数年で孝弘に独立の噂が流れてな。色々とあったらしいが、結局のところ孝弘は独立し、自分の設備会社を起こしたわけだ。うん、その時にはもう槇子と結婚していたよ。お前が生まれたのは創業の二年後だったが、夫婦二人で力を合わせ、それはもう一生懸命にな。順調に見えたよ。俺も嬉しかった。だが、沖本は面白くなかったんだろう。県内でも有数の建設会社で、この地元じゃあ神様みたいなものだ。対外的な面目もあっただろうからプライドが傷つけられたんだろう。なにせ《コイツは出来る》と口外していたその男に逃げられたんだから。それからは事あるごとに孝弘の邪魔をするようになってな。孝弘も随分悩んでいたが、ついには孝弘の会社の経営が揺らぎだしたんだ。銀行にも圧力を掛けられて資金繰りは火の車さ。十人ほどいた社員も徐々に減り、最後は夫婦だけ。そして孝弘は――」


 光之は棺に涙を落とした。


「表向きは作業中の転落で、頭部を打ったから――ということだが、仕事になど集中出来たはずが無い。お前という一粒種の将来もある。家族三人で幸せになるんだという夢は他人の手で壊され掛けていたんだ。俺は、あれは自殺だったと今も思っているよ。誰がなんと言おうとな。そして今度は槇子だ」


 棺を撫でる手には深いシワが刻まれていた。


「沖本栄太郎から援助の申し出が来たのさ。過去の経緯は水に流そう――という話だったようだ。勿論槇子が頷くはずもない。だが、お前の先々を思ったんだろう。自尊心を捨ててでも孝弘が残したお前を育て上げなくてはと思った槇子は、申し出を受け入れたよ。資金面の援助と、仕事を貰うという話になった。それでまた社員を求め、孝弘の会社を潰さずに済んだわけだ。だが代償は大きかった。いや、大きすぎた。沖本には狙いがあったんだ。もう言わなくてもわかるな?お前も大人だ。槇子のためにもこれは隠さずお前に言っておかねばならん。秘密にすれば綺麗に終わるだろうが、それではあの子たちの自尊心はどうなる?」


 祖父の話は良太には聴くに堪えないものだった。


「沖本は槇子に子を産ませたんだ。それが沖本新一郎さ。再建した会社の存続には沖本の力がどうしても必要だった。そう、それを間違った考えという者もいるだろう。だがな、誰の生き方を誰が間違いだの正しいだの言い切れるんだろうな?そりゃあ悪と善は別の話だよ。それだって立場立場で見え方はまるで変わる。お前の人生のために母親が選んだ道を、指さして笑える者は、どんなご立派な道の上からそれを言うんだろうな?」


 祖父は項垂れて呟いた。

 

「誰もが死に物狂いで生きている…。豊かに生まれついたらそうでもないんだろうが、言ってみればそんな人生こそ意味があるのかないのか…」

 

 目頭をつまんだ。


「毎日遅くまで残業だ。社員の誰より働いた。疲れているのに俺の世話までして、朝は五時起きだった。槇子は、運転を誤ってブロック塀に激突したが、俺は事故だと思っていない」


 誰もいない深夜の通夜会場で、最後に祖父が言った言葉を良太は忘れられない。


「孝弘と槇子の悔しさを、お前だけは理解してやれ」


 オープンカフェの賑わいが良太の耳に戻ってきた。止まって感じられた時がまた動き出した。


――俺は、沖本から貰う仕事に励んだお袋に育てて貰ったんだ。


 唇を噛み、悔しさを殺し、社員とともに現場仕事をしていたのだろうと思う時、良太には誰にも言えない感情がこみ上げていた。憎悪だ。


――いつか必ず、沖本を殺してやる!そう思った俺は、お袋の旧姓を得て沖本建設に入社し、首尾よく沖本に評価されていった。


 テラス席を離れ、歩き出した。


――《その時》を静かに待ったよ。やり遂げる《その時》をな。逢沢…それがお前の知らない俺の正体さ…。


 思い出すのは横たわる死者の顔だ。ゴルフクラブで痛打され、昏倒して息絶えた沖本栄太郎を見下ろす良太の眼差しにあったのは、怒りよりも哀れみだった。
 良太の画策通りに《その時》は訪れたが、それ以後は計算したものと違っていた。沖本のワンマン会社は敵も多く、借り入れもそれなりに巨額だった。債権者の群れはワンマン社長が消えた会社に早々に見切りを付けて、債権の取り立てに掛かった。二代目候補の新一郎など誰も見てはいない。そして沖本建設はあっけなく倒産した。
 同時に警察の捜査も進んでいたが、強盗の仕業に見せかけた良太の狙い通りに良太に捜査の手が及ぶ気配はなかった。
 上手くいくはず――という確信は、だが意外な変化を良太の中にもたらし始めた。
 上手くいきすぎていないか?という疑念が生まれたのだ。確かに一年もするとニュースに沖本の殺人事件が出ることは皆無になった。自分の周辺にも変化はない。だが、本当に上手くいっているのだろうか?と良太は不安に駆られた。捜査は密かに進行し、やがて良太自身に捜査の手が及ぶのではないかという恐怖だ。
 地元を離れて東京に来た良太は正就職をせず、あやふやな身分でも雇い入れてくれるアルバイトで食いつないだ。その仕事も、長くは続けない。働いているうちに自分に目星を付けた刑事なりが訪れるような気がした。続けても数ヶ月で、他のアルバイトに移動した。寮のある仕事を選び、女や酒といった遊び事からは身を遠ざけた。息を殺し、影に溶けた暮らしは、子供の頃に戻った気がした。自分は、そう生まれついたのだと思った。
 その良太に人混みで声を掛けたのが初恋の相手だったのは、良太にはここ最近で最大の喜びだった。それでも良太は思う。


――また会おうなんて言えなかった。俺は、人殺しなんだから……。


 切符を買い、電車に乗り、駅で降りて寮に戻る。明日も仕事に行き、そして同じ事を繰り返す。そのうちに仕事を他に求め、居場所も替え、それまでの同僚ではない違う人々の中に紛れ込む。《何かで目立つ誰か》ではない。誰も気にとめない《何処にでも居る誰か》として生きると決めたのだ。中学生だった頃も好きだなんて言わなかったじゃないか――と心で呟いた。


――こんな殺人者の人生に、彼女を近づけてはダメだ……。


 屈託のない笑顔が浮かび、頭を振ってそれを払った。
 人生に夢を持たない良太だが、残念に思うことはあった。新一郎のことだ。沖本栄太郎の一人息子で、あろうことか自分と血のつながりを持つ新一郎を殺せなかったことを、良太は最大の心残りにしていた。だが、それはもう遂行しない。近づけばそれは《目立つ行為》でしかない。新一郎自身が悪というわけではないが、母の悔しさの象徴に思え、存在を完全否定したかった。それでも新一郎のことは忘れようと努めるしかなかった。
 寮の個室で横になると天井を見上げた。薄汚い部屋には様々な人間の匂いが残っている。自分もここに何か匂いを残して去るのだと思うと笑えてきた。


「人は人生に何か、自分はここにいたぞ!こうやりとげたぞ!というものを持ちたいものだ。それが誰かから見て立派とかそうじゃなくても。でなければ自分は何をしに生まれ出たのかもわからない、誰かと置き換えても誰も気にしない〈ただの誰か〉になる」


 思うまま呟き、苦笑した。


――俺はやり遂げたじゃないか。母の悔しさ、父の恨みの根源を完全否定してやったではないか。それが俺の生まれた意味だ。


 苦笑は止まらない。涙も止まらない。犯行を後悔したことはない。思い出して泣いたこともない。その自分が今日、逢沢里奈と再会し、あの笑顔を見たことで何かが自分の中で変わる気がした。
 良太は時々手に痺れを感じる。それは栄太郎の後頭部に振り下ろしたゴルフクラブから伝わった衝撃だ。その痺れは何年経とうとも消えない。極度に緊張をすると、震えは他人から見ても分かるほど酷い。寮に向かう路地に立って辺りを警戒する今も、手は震えていた。思い出されるのは事件のことだ。
 刃物ではなかったのでドラマにあるような返り血は浴びなかった。ただ、床に落としたゴルフクラブはゆるやかな《くの字》に曲がり、床に倒れ込んだ被害者の頭からは夥しい量の血が流れ出ていた。
 事件はニュースでも報道された。だが、不思議に思うほど良太の周囲に捜査の足音は感じなかった。それまでもニュース番組は好きでよく見たが、事件後はその頻度が上がった。それでも数日もすると、その事件のことは扱われなくなっていった。世の中には衆人の関心を引く出来事が日々目白押しなのだ。
 やがてテレビも新聞も良太を恐れさせる事件の報道をしなくなると、良太の中にも変化が起きた。事件を思い出さない日など無い良太だったが、アルバイトに集中出来る時間が増えていった。一人で部屋に居れば勿論思い出すこともあったが、そんな時も記憶には奇妙なモヤがかかった。細部は鮮明でなく、自分がやったことかさえ自信が持てない。ドラマや映画の様々なシーンから刺激を受けて、架空の記憶が脳にこびりついたのかもしれない――と思うことすらあったが、アルバイトを転々とする自分の境遇を振り返る時、手の痺れを思う時、原点から目を背けることは出来ないのだと思い知った。
 バイト先を短期間で辞めるのは恐怖からだった。長居するうちに、いつか誰かが自分の前に立って《あれはおまえがやったことだ》と言いはしないか。それに怯えた。忘れたがり、薄れた感覚にすがり、それでも忘れてなどいない恐怖から逃げ続ける自分がいる。
 いま、路地の入り口にも道の先にも誰も見えない。見上げても窓から顔を出す者など居ない。良太は大きなため息を零すと歩き出した。
 その夜は里奈の顔が脳裏に浮かび、なかなか寝付けなかった。

 翌日、アルバイト帰りにコンビニに立ち寄った良太は、缶ビールを二本と弁当、そして酒の肴をカゴに入れてレジに立った。不意にいつもの視線を感じた。商品を見る振りを装って様子を窺った。背後に会計待ちの次の客がいた。その中年男は商品に視線を向けたが、良太が振り返る瞬間、慌ててそうしたように見えた。
 会計を終えた良太は急ぎ足でコンビニを出るとバス停に向かった。振り返ってコンビニを見たが、男が付いてくる気配はなかった。
 ホッとしていると、ちょうどバスがやって来た。混む路線でも時刻でもないが、空いた席は無い。仕方なく降り口に近い吊革につかまった。走り出したバスに揺られていると、視線を感じた。唾を飲み込み、何気なさを装って車内を見回す。ほとんどの乗客が手元のスマホに視線を落としているが、その中に一人、前を向いている者が居た。鋭い目つきを伏せることもなく、ただじっと前方を見ている。男と良太の目が合うわけではないが、男は不自然に思えるほど視線を動かさなかった。老婆が一人、見えてきたバス停で降りるために良太の傍に立った。良太が降りるバス停の一つ手前だが、良太はバスが止まるやいなや外に出た。男に動きはなかった。バスは何事もなかったように走り去った。
 心臓が高鳴る中、脇を宅配の車両が徐行して追い越していく。ドライバーは良太を見ている。良太は駆け出し、寮に向かった。
 その途中、親子連れとすれ違った。若い母親が幼稚園ほどの少年の手を引いていた。
「僕が守るよ!」
「えー!ゆうクンがママを守ってくれるんだ?パパより頼もしい!」
 ハッとして振り返ると、少年と母親がこちらを見ていた。
「か……あさん?」
 見覚えがある。古い写真の中の若い母と自分だ。
 そんなはずはない!と頭を振って駆けだした。寮の前に立つ少女が見えた。少女は、逢沢里奈だ。中学の制服を着た屈託のない笑みが良太を見つめている。
「ばかな…!そんな……」
 立ち尽くした良太に、里奈は笑みを消した。
「そんな目で見ないでくれ…」
 顔を覆って呻く良太に、里奈は何も言わない。
 沈黙に、良太は顔を覆っていた手をどけた。そこに里奈の姿は無かった。そして感じたのは、あの視線だ。誰かが良太を凝視するのがわかる。姿は見えない。良太は寮のドアを開け、転がり込むように入っていった。すべてが里奈との再会を機にしているように思えた。
 


 その夜、ノックの音にドアを開けると、逢沢里奈が立っていた。酷く悲しげに黒い手帳をかざしている。


「ごめん…話しが聴きたいの。署に……来て」


 良太は理解した。そして頷いた。大方何か新事実でも発見されたのだろうと思った。特に感情は生まれない。強いて言えば、何故こんなにも時間が掛かったのだろう――というくらいだった。
 連行される途中、他の刑事が少し離れた瞬間、背後から里奈の声が聞こえた。


「何が悲しいって、久しぶりに見た佐野が酷く怯えて、寂しそうだったのが一番悲しかったよ」


 それきり里奈は何も話さなくなった。取り調べにも参加はしなかった。
 公判で良太はすべてを認め、控訴もしなかった。死んだのだと思った。自分は、いつかは判らないが、とっくに死んでいたのだと思った。死んだのだから退場したい――もう終えたい――その気持ちで判決を聞き、深く頭を下げた。

 里奈に連行された時から、あの視線を感じなくなった。刑務所で良太は思った。あの視線も自分を追い続け、自分を捕まえたのも、きっと自分だったのではないだろうかと。