bitokunoburoguのブログ

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私の音楽との出会いからジャズに魅力を持っていった経緯を書きました

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第2回発表会も、大きなトラブルもなく終わる事が出来ました。



この頃には、クールサウンズオーケストラと同編成の、フルバンドジャズのバンドが、

磐田市周辺の市町村に徐々に増えてきました。


磐田市には、○○と○○ジャズオーケストラや、

オ○○○ポップスオーケストラ(後にジャズオーケストラと改称)、

 

特に浜松方面には雨後の竹の子の様に多くのバンドが出来てきました。


そして、ライトミュージックコンテストの様なコンテストが、磐田や浜松(市民会館)などで開催されるようになり、

 

クールサウンズオーケストラも何回か参加しました。



磐田市での発表会も、上記のバンドがそれぞれ開催し始めたのは、クールサウンズオーケストラが、

先例を作ったのも一因ではないかと思っています。



この様な状況で第2回発表会から、3年経ちました。


他のバンドの発表会の様子を見聞きしていたが

そろそろ、第3回発表会を、との声が聞こえ始めました。



 

第2回発表会の当日トラブルが発生しました。


会場の体育館は舞台は付いていますが、

着替えが出来るような部屋は付いていませんでした。



舞台の裏が半地下になっていて、ここが物置の

代わりにもなっていたので、舞台で使うものは、

ここに取りに来ます。


ボーカルの女性は着替えの場所がないので、

ここで着替えをしていました。



舞台で不足物が出たので、着替えをしている

とは知らず、取りに降りて行ったところ、

急に「キャー」と言う声が上がりました。


何がなんだか分からず、辺りを見回すと

ボーカルの女性が、付き添いの女性と

着替えの最中でした。付き添いの女性が

急いでボーカルの女性を隠していました。


慌てて、その辺にあった小道具で

女性が見えない様に目隠しをして

不足物を確保し、その場を後にしました。



幸い大事にはなりませんでしたが、

取りに行く前にその場所の状況確認を

忘れたのが原因でした。



この様なトラブルはありましたが、

なんとか、第2回発表会も始まりました。


今回も、ジャズとラテンをテーマにしています。

歌謡曲もジャズやラテンのリズムの

編曲で演奏します。



今日のプログラムです。

1st Stage

 ①第三の男

 ②波路はるかに

 ③お嫁においで

 ④ベサメムーチョ

 ⑤グラナダ

 ⑥ピーナッツ ベンダー

 ⑦ジェラシー

 ⑧涙がかわくまで


2nd Stage

    賛助出演……ザ・コックス

3rd Stage

 ①ザ・コンチネンタル

 ②ダンシング・スワン

 ③センチメンタル・ジャニー

 ④朝日のあたる家

 ⑤ワン・レイニー・ナイト・イン 東京

 ⑥思い出のソレンツァラ

 ⑦テンプテイション

 ⑧八木節


と言う内容です

 

 

第1回発表会が終わり、1年が経ちました。


メンバーが少しづつ交代し、次のようになりました。


Saxohone  
4名

Trunppet    
3名

Tronbone 
2名

Bass       
1名

Drums      
1名

Parcussion    
1名

Vocal 
1名


待望の女性ヴォーカル M大橋が入部しました。

元トランペットの鈴木が、ベースに転向しました。

鈴木の名前は、諭(サトシ)ですが、論(ロン)と字が似ているので

「ロンさん」と呼ばれています。

 

本人もベイシストの名手「ロン・カーター」にあやかりたいので「ロンさん」を気に入っています。



ボーカルが入ったことで、今年も発表会をやろうという機運が出てきました。

昨年の経験があるので、特に障害はなく、

あっという間に、第2回発表会が決まってしまいました。


あとは楽譜(編曲含む)と練習です。

ジャズの楽譜はその頃、あまりなかったので、

大阪の楽譜店まで行って探して来ました。


練習ですが、この頃ほとんどのメンバーは、

2直制で働いていたので、早番と遅番があり、

朝6時〜午後2時までの人と、午後2時〜10時までの

2種類の勤務を、1週間毎に繰り返していました。


この為、全員が一緒に練習する事ができないので、

できるだけ片方のグループに集めてもらったり、



連休に、1泊で近くの山の方で合宿を行ったりして、

できるだけ合同練習ができるようにしました。

 


この発表会のプログラムの中の、クールサウンズオーケストラとしての

ごあいさつが我々部員の気持ちを代弁していますので、

少し長いですが、ご覧頂ければ幸いです。


 

 

 



 私共クールサウンズオーケストラは、4年前の昭和38年に

会社の全面的な援助で設立されました。



以来たゆまず練習を積み重ねてまいりましたが今日、



ここに第1回発表会開催までにこぎつけ得たのはご来場のお客様、



磐田市体育館、足立楽器店、会社共済会、準備をしていただいた、

会社のみなさん、それぞれのみなさま方のあたたかいご協力の

結果だと部員一同感謝しております。




 私共は体外的な活動も少ないし演奏技術もまだまだ未熟ですので、



当初社内のみのでの発表会として、磐田市内に会場をお借りして、開催する予定でした。



しかし社外のみな様の聞かせてほしいという声が多数あり、又、会場も


十分な収容能力を持っています。

 

そこでわが社だけでなく磐田地区の文化活動の一貫ともなれば幸いと

 

広く社外のみなさんのご来場を願った訳です。


 又、もう一つには、出来るだけ多くの人にジャズを聞いて好きになって

貰いたいと思うからです。若い人の間では、そのような事はないでしょうか。


ジャズとは「けんそうでたいはい的で薄っぺらなもの」と決めつけてしまう人が多いのは残念な事です。

 

ジャズが良く使われる音楽的手法として

シンコペーションというのがあります。

 

こういう手法一つをとっても今日のクラシック曲以外の一般的な音楽におよぼした影響は図り知れないものがあります。



ジャズは、やはり今世紀アメリカの生んだ偉大なたましいをもった音楽だと信じます。




 むずかしい事はどうでもいいですが、ご来場のみなさん一人ひとりが気楽にクールサウンズオーケストラを聞いてみて、

 

なかなかジャズもいいではないかと感じていただければ

 

私共にとって、これ以上の喜びはありません。

 

 

 

いよいよ第1回発表会が始まりました。


第1回発表会で演奏した曲目です。


第1部

①Seprember in the Rain

②Mack the knife

③A Stribg of Pearls

④Little Brown Jug

⑤The Continental

⑥Zui Zui Zukkorobashi

⑦Somebody Loves me

⑧Woodchopper's Ball 



第2部 (賛助出演) ザ・スラッシュ



第3部

①Besame Mucho

②My showl

③La macarena Mambo

④Siboney

⑤The Breese and I

⑥September Song

⑦Dark Etes

⑧Charlston

⑨Cameback to Solent

以上の様に、現在でも通用するスタンダードな曲だと思います。




第1回発表会も、まず好評で大きなトラブルもなく終了する事が出来ました。


この発表会のプログラムの中の、クールサウンズオーケストラとしての

ごあいさつが我々部員の気持ちを代弁していますので、

少し長いですが、次の記事でご覧頂ければ幸いです。


 

以前の記事で、メンバーが13人なったと書きましたが、このメンバーだと「ジャズフルバンド」という事も出来、

1967年になると、そろそろ「第1回発表会をやろうよ」と言う意見が出るようになりました。


この辺は、遠州地方の南部の磐田市ですが、
当時は、一般のフルバンドの発表会と云うのは全然なく、

ちょっと無理ではないか? と言う意見もありましたが、

プログラム作成費のスポンサーも集まり、賛助出演の、この地方では有名エレキバンドの、協力も得られたので、実施する事を決定した。


場所は当時(1967年)の磐田市体育館でした。

この頃は、この辺には、音響効果の良いホールは無く、全ての催事は、ここで行われていました。


(数年後、この辺では、唯一の音響効果の良いホール「磐田市民文化会館」ができましたが、このこけらおとしもクールサウンズオーケストラがやらせて頂きました。)



発表会の実施が決まると、忙しくなってきました。

プログラムやポスター作り、

磐田市内の高校を回り、ポスターや、プログラムの配布許可を頂き、司会者には有名な、

浜松スイングバンドの遠山栄一氏に依頼するなど、多くの事が待っていました。


そして、いよいよその当日

1967年5月21日(日)午後5時が近づいてきました。

 

 

第1回発表会よりかなり前の、メンバーも10人位の時の事です。

同じ会社の宝塚工場のダンス部から、
「ダンスパーティーをやるから、演奏に来てくれ」
との依頼を受けました。



初めての社外での演奏でしたが、怖い物知らずで、演奏に
行く事になりました。
場所は、宝塚のホテル「松風閣」だったと思います。


今思うとダンスのテンポも知らず、ダンス音楽の長さが
どの位なら良いか、ジャズのリズムは適正か?

 

という事もわからずに、たまたま持っていた楽譜通りに演奏をやってしまいましたが、


踊る方も、「演奏は初心者だから仕方がないか」
と思ってくれたのか、クレームは、聞かれませんでした。


のちに地元でダンスパーティー演奏を頼まれたりして、
演奏した時は、「速度が速くなる!」とか
「このリズムでは、1分30秒で終了!」とかのクレームが
多発しました。


この為、ドラムでは対応できる人がいなかった事も有り、
ダンスパーティーのドラムは、パソコンを使うようにし

演奏時間もリズム毎に最適の長さに編曲するようにしました。

ドラムは、単なるリズムマシンではなく、楽譜に有る音は、
ほぼ全て打ち込み、ドラムだけ聞いても人が敲いている様に
聞こえる様にしました。


その為、その後のダンスパーティーの演奏が、「トイレタイム」
(踊りずらい演奏なので、踊るのを止めてトイレに行き、次の踊り易いレコード演奏を待つ) と云われる事にはならず、


食事休憩中に、演奏を始めても食事を中断して、急いで踊りに
来る人たちが多くなりました。

現在 もし、この宝塚の時の演奏録音があり、これで踊ってもらったら、多分クレーム続出で、「バンド演奏中は、トイレタイム」と言われ、

演奏中は踊る人が殆どいなくなってしまうかも知れません。
それほどダンス音楽には、無知の頃の初ダンスパーティー演奏でした。

 

入部した年度末には、ベース、ドラム、ギター、クラリネット2人、

サックス2人、トランペット、ロンボーンと合計9人でしたが、

次の年度に経験者のトロンボーンの長谷川が加わり、強力なメンバーの一人となりました。

しばらくは、このメンバーで練習等を続けました。



その数年後、結婚退職や転勤その他で、

メンバーの入れ替わりや楽器の入れ替もあり、

編成は、ベース、ギター、ドラム、サックス4人、

トランペット4人、トロンボーン2人の13人となりました。


この中で、この当時から、40年以上在籍したメンバーは、

山田(sax)、大橋(sax)、伊藤(sax)、長谷川(Tb)、鈴木(Tp→bass)、石山(Tp)の6人です。


この中で50年以上の長期在籍者(定年退職してもクラブは続けている)は複数人おります。



この当時、そろそろバンドの名前を付けようとの
意見が出ましたので、皆で検討しました。


僕も提案してみました。
当時、スタンゲッツなど、「クールジャズ」が
流行していたことから、

「クールサウンズオーケストラ」を提案したところ
これに決まりました。
そして、このバンド名は、現在まで続いております。


バンド名が決まったので、次は、譜面台を作成する事になりました。


デザインや色を検討して、作成する事になりました。


プロのバンドの譜面台を参考にして、木製の譜面台に決まり、

色は、「クール」なイメージの「青」に決まり、

文字のデザインは、石山が担当しました。


そして、立派な譜面台が出来上がり、その後ずっと使われ続け、一部補修はしたものの現在に至っております。

 

高校を卒業し、近くの会社へ就職しましたが、もうバンドは、無いだろうと諦めていました。

この会社は、この地に設立して3年目ですが、他の地からの出向者の先輩も多く、

半年を過ぎた頃、楽器の経験のある先輩たちが集まり、バンドが出来ていました。

この時の編成は、べース、ドラム、ギター位だったと思います。


その時の総務課長が音楽に理解があり、また 高校の音楽の先生とも交友が有ったので、

クリネット2本、トランペット、サックスを購入して下さいました。



この時点で、我々同期生で音楽好きな3名が入部する事が出来ました。 

僕と山田がクラリネット、大橋がサックスを始めました。
しかし、僕と山田は、楽器の持ち方も、

 

楽譜の読み方も正しい音も分からない状態でした。

大橋だけは経験者でしたので、楽譜の読み方は教えてくれました。(大橋はトランペットだったが、
高い音が出なかったので、サックスに転向)


音が出ないのを見るに見かねた総務課長が、知人の高校の音楽の先生に「おたくの生徒が、うちの社員へ吹き方を教えてくれ」と頼んでくれたので、


僕と山田は、何度となく高校へ通って教わり、何とか音は出るようになりました。


その後、同期生の女性が2名入部し、トロンボーンとサックスが
増え、少しづつ部員も充実してきました。

 

 

ジャズへの入口

 

僕は、子供の頃から音楽の様な音が好きでした。

母親が、おもちゃのピアノを手に入れてきたので、指で押さえたり、敲いたりして音が出る事を楽しんでいました。

小学生になると、通常は、ブラスバンドの様なクラブが、あるのですが、僕の行った小学校には、ブラスバンド部は有りませんでした。


一部の特定の人だけ、唯一有ったピアノを、時たま練習しているのを見かける程度でした。


音楽の授業には、合唱みたいなものを歌い、先生が生徒の間を歩きながら、上手下手?をチェックしていました。


今思うと、音程が合っているかどうかを調べていたのかも知れません。


中学校へ入っても、残念ながらブラスバンド部は有りませんでした。

このころは、何処で手に入れたか覚えていませんが、ハーモニカを我流で吹いていました。

一応 曲にはなっていたのではないかと、自分では思って楽しんでいました。


音楽の授業は、歌う事が苦手でした。いわゆる音程が取れない音痴でした。


他人が歌っているのは、音程が外れていると、分かるのですが、自分が歌うと音程が取れず、歌えないのです。
いわゆる「喉悪音痴」です。



高校へ入っても、ブラスバンド部は有りませんでした。
今時、ブラスバンド部が無い学校は殆ど有りませんが、
当時、残念ながら我が高校は有りませんでした。


この頃、ギターが流行していたのですが、買えなかったので木の板にテングス(テグスの遠州地方の方言)糸を張って、ギターらしい物を作り、ギターの真似事をしていましたが、

正月小遣
いを溜めて、ギターを買い練習を始めました。
その内「湯の町エレジー」をつま弾けるようになり、
練習にも励みが出てきました。