影がかがみか 鏡がかげか、拝む心が神ごころ
拝む姿が、拝む心が、神の姿、神の心である。
神様の清(すが)しく正しい誠の御心と、
神様から授かりし眞直ぐで美しい自分の心が、
拝むことによってぴたりと一つに
照らし合わされて居るならば、
神様と自分は常に一体であり
邪念の入り込む一分の隙も憂いも無い。
安心して日々を明るく健やかに過ごすことができる。
(神社のおみくじの神の教より)
私なりの解釈
先週は、厄払い・厄落とし方法の記事にアクセスが多かったので、
『これは皆さんが知りたい事、役立つ情報のようだ』と思い、
ぜひとも神様の方からも厄払い・厄落とし方法について何か教えを戴きたく、
氏神神社でお願いしておみくじを引いてきました。
そうしたら「洗う、流す、捨てる」より、もっと手間が要らない「拝む」事でした。
しかし、動作は簡単な事でも、真直ぐで美しい心で拝めているか?そして、ぴたりと一つに神の御心と照らし合わされているか?というと難しそうです。
また「拝むことによって神様と自分は常に一体」という意識も薄かったと思います。
拝む時って、家では神棚の御札の方に意識が向かい、
神社では拝殿の奥にある御幣や神鏡の方に視線が行き、
3月のご祈祷の時は、天井高の高い拝殿で奥の壁のかなり上の方に神鏡や扉があったので『もう少し上の方を意識したほうが良かったかな』と思ったりして、
「上の方」か「向かい側」に神様がいるとイメージしていました。
まさか自分が拝んでいる姿や心が、神様の姿や心と一体化するとは思わずにいました。
《追記》
「影がかがみか 鏡がかげか、拝む心が神ごころ」
という見出しについての考察ですが、
始めの「影」は漢字で、そのすぐ後の「かがみ」は、ひらがなで、
次は「鏡」と漢字で出てきて、対する「かげ」のほうがひらがな。
「拝む心」の「心」は漢字で「神ごころ」の「ごころ」はひらがなになっています。
そこで「影」「鏡」「心」と全て漢字に変換してない意味は何だろうか?と考えてみました。
そもそも内容を表わすだけなら「拝む心が神心」の短いタイトル(見出し)でも良かったはず。
それをわざわざ「影がかがみか 鏡がかげか」と問いかけるように始めているのはなぜか?
そこを自問自答してほしいからではないだろうか?
「かがみ(鏡)」から「が(我)」を抜くと「かみ(神)」になるという考えからすれば「かがみ」は神に成れてない「我」の入った人の心の事でしょう。
影(かげ)は、この場合、月影、面影、人影などの雰囲気的な影でいいのか?
ちょっと違和感。
もしかすると、投影する、影響するの影なのでは?もっと言えば、悪影響の影。
すぐには考察しきれないので、今後また気が向いた時に考えて、何か気がついたら追記したいと思います。