国魂から大国魂神を経て大国主命に
飛鳥時代から奈良時代の初めにかけて(聖徳太子の国史の作成から『古事記』の完成まで)全国各地の伝承を集めた日本神話が朝廷により整理されていった。
この動きの中で、国魂が大国魂神を経て大国主命になった。
首長連合
古代出雲では、地方豪族が祭る各地域の守り神を大国主命がまとめて国魂として出雲全体を守っていた。
島根県出雲市荒神谷遺跡から出土した銅剣358本が、出雲国風土記にある神社の数397社とほぼ一致する。2世紀半ばには出雲は4つの地域に分かれていたが、各首長が銅剣を1本づつ持ち寄り地域別に1列に整理する形で納められており、これは荒神谷を勢力圏とする主張の指導の下で祭りを行っていた有様を示すものとされた。
荒神谷の祭りに参加した首長たちの子孫が神社を祭っていた事が分かる。
その後、こうした祭祀を通じた首長連合が、日本のあちこちにもつくられていった。
王家(皇室の先祖)も最初は
三世紀はじめ(220年頃)には、大和や河内の首長をまとめたヤマト政権が有力になっていった。
当初のヤマト政権の本拠地であった奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡には、
自然の河川と人工の運河とからなる水上交通路が張り巡らされていて、
これによってヤマト政権が交易によって栄えていた様子が分かる。
このヤマト政権を指導する王家=皇室の先祖は、はじめは三輪山に坐す神様を祭っていた。
この神は、のちに大物主神(おおものぬしのかみ)と呼ばれた。
大国主命の神話については、こちらの漫画の古事記がお勧めです。
三輪山の神は大和の国魂
大王(おおきみ)が祭った三輪山の神様は土地の守り神。
そして、ヤマト政権成立時に国を守る神を表わす「大和の国魂」と呼ばれるようになったと言われている。
王家は三輪山の神祭りを始めると共に自分の家の祖先たちの霊が三輪山の神と同一の神である(格式高い)と主張した。
古代史家の中には首長の祖先を格の高い神として祀る信仰を「首長霊信仰」と呼ぶ者もいる。
出雲の国魂
それから出雲地方を守る神も「出雲の国魂」と呼ばれるようになった。
あちこちで国魂祭り
そして5世紀末までは、このような形であちこちの有力な首長によって、「国魂」が祭られていた。
古墳の広まりは首長霊信仰の受け入れ
古墳は3世紀末から急速に全国に広まっている。
この分布から見て、ヤマト政権は5世紀初めに関東地方から北九州に至るまで当時の日本列島の先進地の大部分を支配下に治めたと考えられる。
古墳の広まりは、地方の首長が大和で起こった「首長霊信仰」を受け入れたことを示す。
彼らはヤマト政権に従って、支配下の民衆に自分の家の先祖を神として崇めさせるとともに、王家の神の下位に自分の先祖の神をおいた。
王家の神が同じ国魂では都合が悪かった
そしてヤマト政権の勢力が大きく拡大した6世紀はじめには、
王家の祖先神(皇祖神)天照大御神の祭司が始められた。
王家の神が地方豪族が祭る神と同じ国魂(大国主命、大物主神)では都合が悪いからである。
それゆえ三輪山に大物主神の祭りの場の他に、太陽神・天照大御神を拝む所がつくられた。
そして王家の未婚の女性がその祭司とされた。
その祭りが行われたところは現在の三輪山頂上にある神坐日向神社の社地。
そして天皇家による全国支配がほぼ完成した7世紀末に天照大御神の祭りの為の伊勢神宮が建てられた。
大国主命の別名が多いのは
で、結局、大国主命の別名が多いのは、朝廷が日本神話の体系を整える時に、
あちこちの首長によって祭られた「国魂の神」を、
全部「大国主命の分身で同一神」としたから。
私の感想
という事で、なんか、昔、古事記をまとめていたお役人も、日本の神様は地域ごとに祀られているから多過ぎて名前も色々で嫌になって
「ああ、もうっ!国魂の神はみんな大国主命と同一神って事にしよう!」
って経緯のようです。
これまでに信仰グループ別神社数を調べても、須佐之男命、大国主命の家系ならぬ神系譜の御祭神の神社が多かったのは、そういう訳だったんですね。
全国津々浦々で約3万社も祀られるお稲荷さんこと宇迦之御魂神は、渡来人が崇めた神とか仏教のダキニ天と習合していたとか言われていますが、
日本古来の神としては須佐之男命の子(性別不明)ですから。