中今ー無窮を支える今ー
なかいま(中今)、それは神道の歴史観や時間論を代表すると思われる重要な言葉の一つ。
今現在を「盛りなる真中の世」や「一番中心の時」などと捉える考え方。
太古の昔から未来へと持続する悠遠な時間の流れの中に現在が中心点として存在していて、現在という瞬間に重みがかけられているという時間論ないし歴史観である。
また、悠久の歴史と自分自身との出会いの場である今の一刻一刻を力いっぱい生き、出来るだけ価値のあるものとしようとする生活態度である。
厭世観がない神道
風土的条件に恵まれた日本の神道では厭世観は育ちませんでした。
高天原・黄泉・常世などの他界は、現世以上に価値がある世界とは表現されてないですよね。
世の中は人々の努力次第で良くなる
世の中に最初から完全なものは無く、人々の努力次第で次第に良くなるもの、良くすべきものと考えられました。
それは『日本書紀』巻一末尾の一書の大己貴命と少彦名命の問答が示すところでもあります。
諸宗教の歴史観は直線型と循環型
諸宗教の宗教的歴史観を観ると、直線型と循環型の2つにわけることができる。例えば、
《直線型》キリスト教など
歴史は唯一神の天地創造に始まり、世界の終末に向かって進行する。そして此の世の破滅の時にメシア(救世主)が現れ、死者の復活と罪の裁きが行われ、新生の世が訪れると信仰している。
《循環型》神道など
月の満ち欠けや季節の運行など自然のリズムに見られるように、歴史は周期的再生を繰り返しつつ進行すると信仰している。
神道では時間意識が循環型。
「今」の努力で未来永劫を
未来は、窮(きわ)まる事無く永遠に続いていく「無窮であらねばならない」とする「今」の努力に支えられている。
…というように日本人は考えてきたんですね。
【参考書籍】