熊野御幸と蟻の熊野詣

上皇や法皇、女院(皇后やそれに準ずる女性)の外出を御幸(ごこう)と呼びますが、平安中期に宇多天皇や花山(かざん)天皇が上皇や法皇となって以来、白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇は何度も熊野詣を行われていました。

その熊野御幸の数は百数十度に及んだということです。

このことは

熊野本宮大社の公式サイトにも書かれています。

私は残念ながら熊野詣をしたことが無くて、熊野本宮の写真画像も無いもので、

この熊野本宮大社公式サイトでそちらの写真を拝見させていただきました。

 

熊野は奈良時代には山岳修行の霊場となって、

多くの僧が入山し、その為早くから神仏習合が進みました。

浄土信仰が盛んになると、特に熊野本宮大社(本宮)が阿弥陀浄土として考えられ、

熊野に参詣すれば現世の安穏はもちろん死後は極楽浄土に往生できるという信仰が生まれていました。

そして12世紀初頭までには熊野三山を統括する検校(けんぎょう)のもとに仏教的に組織されていました。

こうした上皇・貴族の参詣により街道も整備され、熊野街道には王子社という分祠社も多数設けられ宿泊所としても利用されました。

 

熊野は多様な信仰を生み出していきます。

本宮の本地仏が阿弥陀如来の他にも、新宮の薬師如来は病気平癒に霊験があるとされ、那智大滝付近には弥勒菩薩の再来を期待して経典を埋納する経塚が設けられたり、

那智の神の本地とされた(千手)観音の補陀落(ふだらく)浄土に向けて身をとして海を渡る補陀落渡海(ふだらくとかい)が行われたりしました。

 

補陀落渡海は、以前テレビ番組で見ましたが、60歳を過ぎると、

一度入ったら中から出られないように出入口や窓など釘打ちされた舟に乗って流されていったのだそうで、ある意味、姥捨て山のような実態で海に老人を流してたみたいでした。

 

そして上皇や貴族だけでなく庶民の熊野詣も隆盛を極め、「蟻の熊野詣」と称される賑わいとなりました。

このように信仰が広がった理由として修験者たちの全国的な展開に加え、

熊野御師(くまのおし)、熊野比丘尼(くまのびくに)と言った人たちの布教活動がありました。

熊野参詣曼荼羅を使って布教し、全国の信者を組織して師檀関係を結びました。

そして全国各地に熊野神社が勧請されて行きました。

 

これらの引用元は、いつもの『神社のいろは・続』です。