神祇氏族

 日本神話で天照大神が度重なる素戔嗚尊の乱暴狼藉に怒り心頭、岩戸に引きこもって、とうとう真っ暗闇になってしまった時、

神々は作戦を練って、岩戸の前で鳥を鳴かせたり、榊に鏡や勾玉の首飾りを飾ったり、踊ったり、祝詞を奏上したりして、太陽神の輝きを取り戻しましたよね。

その天之岩屋戸開きで役割分担をして活躍した神を始祖とする中臣氏、忌部氏をはじめ猿女などの氏族が神祇氏族です。

但し、卜部(うらべ)氏を除く。

 

卜部氏は元々中臣氏に従う氏族だったと考えられ、亀卜(きぼく)を職能として伝え、中臣氏が祓を行う時に補助的役割を担いました。平安時代以降、中臣氏の配下から独立し神祇大副に任命されるようになりました。それから平野神社の神官を務める家と吉田神社の神官を務める家に分かれ、吉田神社からは吉田兼倶(よしだかねとも)が世に出ました。応仁の乱が終息したころ新たな神道説を唱えるのですが、その話はまたそのうちに。

 

 

 中臣氏

欽明天皇の御代の頃に天児屋根命(あめのこやねのみこと)の19世が中臣姓を賜って成立した氏族で、仏教伝来の頃には物部氏と共に仏教に反対の立場をとりました。

物部氏滅亡以降も、引き続きその職掌を務め宮中祭祀の中枢を占めました。

乙巳の変に続く大化の改新での功績により、藤原姓を賜り藤原家の祖となった藤原鎌足もこの中臣氏の出身です。

そして大宝律令の施行に先立って、中臣氏を不比等の子孫である藤原氏と、それ以外の中臣氏に分けるよう文武天皇から詔(みことのり)が下されました。

 

 

 忌部氏

忌部(いんべ)氏は、太玉命を始祖と仰ぐ氏族で、各地の忌部氏や玉造部(たまつくりべ)を率いて祭具の奉製や御殿の造営などを中心に宮廷祭祀に携わっていました。

中臣氏も忌部氏も天智天皇の御代には既に朝廷祭祀に携わっていたといわれています。

平安時代以降は忌部から斎部と改め神祇官に出仕しましたが、中臣氏に圧倒されて行きました。そのことに対する批判は斎部 広成(いんべ ひろなり)が大同2年(807年)に撰上した「古語拾遺(こごしゅうい)」に記されています。

古語拾遺には記紀(日本書紀・古事記)などの正史にもれた古伝承(家伝)をもとに祭祀の根源や祭祀のあるべき姿、それに携わるべき氏族などが記された古典として大切にされてきました。

玉造

玉造とは、祭祀や古墳の儀礼に用いる玉の制作に従事した人達のことで、5世紀中ごろまで盛んでした。

日本の元祖パワーストーンメーカーですね。

 

 

 猿女君(さるめのきみ)

猿女君(さるめのきみ)は、さるおんなくんと読んではいけません。笑われます。

神話で、猿田毘古神(さるたびこのかみ)あるいは猿田彦命とも言われている神様が、天孫降臨の道の途中で道案内しようと待っていた鼻の長~い体の大きな神様で、

天鈿女(あめのうずめ)が何をしているのか?と聞きに行って、その後、役目を果たすと夫婦になられた神様でしたね。

で、猿田彦命にちなんでつけられているそうです。

男女同権時代の現代人視点からは、天岩戸の前で胸をさらけ出して踊って活躍したのは天鈿女の方だから、鈿女氏か鈿女君とか踊部、神楽部じゃないの?と思うけど、

猿女君です。

大嘗祭や鎮魂祭、神楽に奉仕することを職能とした氏族でしたが、

神祇官ではなく縫殿寮(ぬいどのりょう)に出仕し、

神祇氏族としては、中臣・忌部に比べて低い地位に甘んじ、比較的早い時期に没落したとか。

 

 

御巫(みかんなぎ)

この他に宮中には天皇親祭の介添えし、神事そのものに奉仕した御巫(みかんなぎ)という存在がいました。

宮中には36座の神々がお祭りされておりましたが、その中で23座の神に仕えた少女たちの事です。

定員5名。天皇の巫女として祭祀の重要な役割を担いました。