密教

さて、神道の歴史で両部神道や山王神道を記事にしていると、

仏教についても、もう少し説明しておかないと

分かりづらいと思ったので、少し話が戻りますが簡単に紹介していきたいと思います。ご容赦ください。

密教と顕教 

釈迦の教えを経典から学び修行して悟りを開こうとするのが顕教(けんぎょう)で、

それに対して、人間の理性によっては把握できない秘密の教えのことを密教(密教)と言います。

 

密教で重んじ、目指していること 

密教では、秘密の呪法の習得や実践を重んじ、

生きながら大日如来と一体化する即身成仏(そくしんじょうぶつ)を目指しています。

真言宗から解釈した両部神道では伊勢の神宮の内宮・外宮ともに本地が大日如来でしたね。

 

 

  大寺院は遷都で移転させなかったが

第50代・桓武天皇が延暦3年(784年)仏教勢力の弊害が顕著となった奈良から山背国の長岡京に遷都したのは、

当ブログでもタイトル「平安遷都」で書いたと思いますが、

その遷都に当たり、南都の大寺院を長岡京・平安京に移転させず

最澄らの当時は新しかった仏教を支持しました。

 

  最澄、戒壇を巡って南都と激しく対立

最澄は遣唐使に従って唐に渡り、天台山にて天台教学を習得し、帰国して天台宗を開いたことは歴史で習ってご存じかと存じます。

当時、正式な僧侶と公認されるには、得度(とくど)して修行し、所定の手続きに従って戒律を授けられる授戒(じゅかい)が必要でした。

戒律とは、僧侶の守るべき規範・規律の事で、

戒律を授けられる場所を戒壇(かいだん)と呼び、

この時代には南都・東大寺、

筑紫の大宰府観世音寺、

下野(しもつけ)国の薬師寺にしか許されていませんでした。

 

その授戒制度に関し、最澄は戒壇の新設を巡って南都と激しく対立します。

 

  新しい大乗戒壇の設立

最澄の死後、新しい大乗戒壇の設立が認められ、

比叡山延暦寺は仏教教学の中心となり、南都(興福寺)と並んで

北嶺(ほくれい)と称されました。

後の鎌倉仏教の宗祖たちも多くがここで学んでいます。

 

  弟子の円仁・円珍によって密教取り入れる

天台宗も最澄の後、唐に渡った弟子の円仁・円珍によって密教が取り入れられました。

天台宗の密教を台密(たいみつ)と呼びます。

 

  10世紀末以降

円仁の門流は延暦寺によって「山門派」

円珍の門流は園城寺(おんじょうじ)=三井寺によって「寺門派」と呼ばれます

 

 

  非公認の山林修行をした空海

空海は、讃岐国の郡司の家に生まれ、初めは官人を目指していましたが、儒教・仏教・道教の中で仏教の優位を論じた『三教指帰(さんごうしいき)』を著して仏教の道へ進み、非公認の私度僧として山林で修行し、最澄と同時に遣唐使の船に乗り、密教を学んで帰国、高野山に金剛峯寺を建て真言宗を開きました。

 

 

 

  真言とは?

真言とは、釈迦の最高の悟りをそのまま表現した言説とされるので「真言」と称したと言われます。

 

  平安京の東寺(教王護国寺)も根本道場

 

空海が嵯峨天皇から下賜された平安京の東寺(とうじ)=教王護国寺(きょうおうごこくじ)も金剛峯寺と並んで密教の根本道場となりました。

真言宗の密教を東密(とうみつ)と呼びます。

 

 

加持祈祷で皇室・貴族の支持を得る 

天台・真言宗の両派とも加持祈祷(かじきとう)によって

国家・社会の安泰を祈り、この世での仏の恵みを期待するという現世利益(げんぜりやく)の面から、皇室・貴族たちの支持を集めました。

 

密教芸術の発展 

天台・真言宗が盛んになると、密教芸術が発展しました。

従来の形式にとらわれない伽藍配置で寺院の堂塔が山間の地に造られ、如意輪観音や不動明王などの仏像が一木造で作られました。一木造りは一本の木から一体の仏像を彫るものです。

また曼荼羅(まんだら)が発達しました。

曼荼羅は密教で重んじられる大日如来の

知徳を表す⇒金剛界

慈悲を表す⇒胎蔵界

の仏教世界を整然とした構図で描いたもので、この世のあり方と幸せに生きる生き方が説かれているそうです。

 

つまり両部神道では、外宮・豊受大神宮・豊受大神は知徳を、

内宮・皇大神宮・天照大御神は慈悲を表す世界に当てはめている訳ですね。