古墳時代ー神籬磐境の神勅ー

 

これまで、縄文時代、弥生時代、古墳時代の太古の人々の神概念と原初の神社がどのようなものだったかをまとめると、

 

神様は目に見えない存在で、特定の場所に定まっておられる存在ではないと考えられていた

祭場については・・・

 

磐境(いわさか)=露天の祭祀場

福岡県の玄界灘の真ん中に浮かぶ孤島・沖ノ島の祭祀遺跡に代表されるように、集落から離れた島や山中、谷間、水辺などの場所にあった

巨岩や巨石などが配された露天の祭祀場遺跡が多く発見されている

 

 

 

祭場には、神様が宿られる依り代が据えられた

磐座(いわくら)=石の依り代

神籬(ひもろぎ)=樹木や枝の依り代

「ひ」は霊力、「もろ」は森や杜の古い言い方「ぎ」は木や城で、まわりに垣をめぐらしたところに由来する説もあり

常緑樹など柱状のものを立てていたと思われる

縄文時代の集落にも立柱祭祀の遺跡と考えられるものがある

雷雷も天と地上を貫く柱で神様の現れであると考えられた

この他、大神神社のように山自体が御神体として崇敬されるなど、滝や河川、山や島そのものが崇敬対象になる場合もあった

 

 

祭器具

鏡 玉 武器 武具 農・工具 紡績具 食器類 楽器といった実用品が多数使われていた

古代の祭りにおいても神様に神饌や供え物を捧げていた

 

勾玉の意味

 

太古のお祭りは天岩戸神話に描かれたように、

榊を根っこから掘り出して玉や鏡をかけたり麻と木綿の布を下げて祝詞を奏上したようですが、

これは応神天皇の父である仲哀天皇が筑紫に行かれた時に豪族たちが天皇をお迎えした時の作法と共通しています。

日本書紀には根っこから抜いた榊の上に勾玉を、中の枝に鏡、下の枝に剣をかけてお迎えし、こう申し上げたと言います。

「これらのものを奉(たてまつ)ります訳は、玉が曲がっているように上手に天下を治め、また鏡のように明らかに山川や海原をご覧いただき、剣を引っさげて天下を平定して頂きたいからであります」と。

 

勾玉って私も作ったことありますが、『上手に天下を治める』という結構重大な意味があったんですねぇ。

うちの子供が小学校時代だったか?学校から貰ってきたけど作り上げないで放置していた勾玉作り教材キットが残っていて、

10年以上前と5~6年前だったか?2回、

家の引き出しなどを整理整頓していたら発見したので、

私がその子供向けに柔らかい石材を、やすりで削って形作ってみました。

なので私は勾玉を2つ作ったけど、それなりの立場にいる人じゃないと勾玉を上手に作れたくらいで天下は治められませんね(笑)

 

 

神籬磐境の神勅

また、日本書紀の天孫降臨の段には高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が「私は天津(あまつ)神籬と天津磐境をつくりあげて皇孫の為に謹んで祭ろう。天児屋根命と太玉命は天津神籬をもって葦原中国(あしはらのなかつくに)に降り、皇孫の為に謹み祭りなさい」とおっしゃったことが書かれています。

これを神籬磐境の神勅(しんちょく)と言います。

 

黄泉の国の神話

それから黄泉の国の神話は、この古墳時代後期になって死者の埋葬形態が竪穴式石室から横穴式石室に変わっていったのを契機に生まれたものとも考えられているそうです。

 

 

今回はここまで。

これまで記事のタイトルに神道の歴史と番号に時代と副題をつけていましたが、もう少し簡潔に変更したいと思います。

テーマが神道の歴史で分けられて検索できるようになっているので、それは無しにしようかと考えています。