弥生時代ー農耕と争乱ー

弥生時代は、紀元前3世紀頃から紀元後3世紀半ばごろまでの時代を指し、「弥生」の名称は明治17年(1884年)に弥生町(現在の東京都文京区弥生)で見つかった土器の名前に由来する。

大陸や朝鮮半島から弥生人が渡来し、元々日本に住んでいた縄文人との混血が進んでいった。

 

縄文人は幅広で下あごが頑丈、目は大きい二重で唇は厚ぼったい。

弥生人は面長で下あごが華奢だった。

目は細い一重で唇は薄かった。

 

紀元前3世紀

大陸から青銅器、鉄器が日本へ伝来する 弥生時代の始期はさらに500年さかのぼるという見解も示されている

 

紀元前1世紀

100ほどの「くに」(小国)が存在

 

57年

倭奴国王(わのなのこくおう)が後漢に朝貢(ちょうこう)し、光武帝(こうぶてい)から金印を授かる

 

107年

倭国王 帥升(すいしょう)ら、後漢の安帝(あんてい)に生口(せいこう)160人を献上する

 

2世紀後半

くに同士の争いがおこる(倭国大乱)

 

3世紀前半

 

卑弥呼が邪馬台国の女王となる

 

239年

卑弥呼が魏に朝貢し「親魏倭王」の称号と金印を授かる

 

247年

この頃、卑弥呼没する。壱与(いよ、又は台与とよ)が新たな女王となり国が治まる

 

266年

壱与が西晋(せいしん)に朝貢する

 

3世紀半ば

前方後円墳が出現する

 

農耕社会で格差・収穫祈願

縄文時代終わりごろに伝わった稲作が広まると、収穫物は掘立柱の高床倉庫や貯蔵穴に納められました。

また機織り技術も大陸から伝来しました。

稲作には開墾や用水を引く必要があり、縄文時代よりも一層の共同作業が必要でした。

 先日のブログ「夜刀の神」でも書いたように、統率者が生まれ、統率者が共同のお祭りも行うようになっていきます。

集落では収穫祈願と収穫感謝の神祭りが執り行わたことでしょう。祭りには銅鐸や銅剣、銅矛などの青銅祭器が用いられました。

↓こちらは「出雲と大和展」で写真撮影可だった模型

「加茂岩倉遺跡銅鐸埋納状況復元」令和元年(2019)島根県立古代出雲歴史博物館

 

稲作によって人々の生活は豊かになったが、

生産力が高いものと低いものの差が開き、

「むら」や「くに」と呼ばれる地域的な小集団から大規模な集落が現れ、周囲に深い濠や土塁をめぐらした環濠集落も出て来ました。(佐賀県の吉野ケ里遺跡など)

また石製や金属製武器も出現し、収穫・貯蔵物を巡って集落間の戦いが始まったことを示しているようです。

 

当時の中国の『三国志』の「魏志倭人伝」によると、その倭国大乱が起こり、諸国が相談して邪馬台国の女王・卑弥呼を立てたところ、ようやく争乱が治まったとあります。

卑弥呼は神の声を聞き呪術を行い30ほどの小国連合の政治を行ったようだというのは良く知られた話ですね。

 

農耕社会で社会的階級格差が出て来て、それが顕著に表れているというか残っているのが埋葬法の違い。

お墓も一般の人達は共同墓地の土坑墓や木棺墓

集落の指導者、統率者は方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)や墳丘墓などの巨大な墓に葬られ、3世紀に入るとこれが古墳となり、さらに大きな前方後円墳が築かれるようになりました。

 

一方で東北北部では大洪水がきっかけで農耕が行われない時期が何百年もあったため本州でも北と南では稲作文化の質が大きく異なるそうで。

 

そうそう余談ですが2020年に判明した新しい情報で、

奈良県の遺跡の土器から弥生人の食歴は「海鮮雑炊」を作っていた事が明らかになりました。