第35代天皇は、舒明天皇の皇后で中大兄皇子(なかのおえのみこ・後の天智天皇)と大海人皇子(おおしあまのみこ・後の天武天皇)の母でもあります。
皇極天皇の時代には、日照りが続き、作物が枯れ、人々は困り果てて祝部(ほうりべ・神官)の教え通りに雨ごいをしましたが、効き目がありません。
それを見た蘇我蝦夷が
「神官など無力だ。わしが仏に祈ってやる」と言って祈ったところ、ポツンと一滴くらいでまた日照り。
そこで皇極天皇は自ら、飛鳥の南淵の川上で四方を拝すると、たちまち大雨が降りだし、民は喜び
「至徳(いきおい)まします天皇」と讃えました。
至徳とは、最上の徳…善や正義に従う人格的能力という意味です。
天皇は新嘗祭を行いました。
同日、皇子、大臣らもそれぞれ新嘗祭を行いました。
一方、蘇我蝦夷・入鹿親子が専横を強め、蘇我蝦夷は聖徳太子の財産を使い込んで立派な双墓(そうぼ)…大小二つの円墳を連接させた古墳を造りました。
聖徳太子の娘である上宮大娘姫王(かみつみやのいつらめのみこ)も
「愚か者!自分勝手ばかりして。天に二つの太陽が無いように、地に二人の帝王もないのだ!」と憤慨します
そしてとうとう入鹿は
2年(西暦643年)に、斑鳩宮(いかるがのみや)に急襲して目障りに思った山背大兄王(やましろのおえのみこ)を滅ぼしてしまいました。
※山背大兄王は聖徳太子の息子で用明天皇の孫ですね。
聖徳太子は蘇我氏側で仏教を取り入れる為にともに戦ったのに。
3年(644年)
東国の富士川のほとりに住む大生部多(おおうべのおう)が、虫を常世の神として祭る事を進めて財産を納めさせ人々を惑わしていたので、秦野河勝(はたのかわかつ)が、その者を討ちとり、祭りを止めさせた。
※宗教的な詐欺はこんな昔からあったのですね。
4年(645年)乙巳年
蘇我氏の専横を目の当たりにしてきた中大兄皇子は、中臣鎌足と共に蘇我氏打倒の策を練り、この年、宮中で蘇我入鹿を討ち取り、その父・蘇我蝦夷も誅殺して蘇我氏を滅ぼします。
大化の改新に繋がっていく、乙巳(いつし)の変です。
皇極天皇は、弟の軽皇子(かるのみこ)に譲位され「皇祖母尊(すめみおやのみこと)」の尊称が奉られました。
これがわが国初の譲位の例となります