第30代は、欽明天皇と石姫皇女(いしひめのひめみこ)の間にお生まれになった敏達(びだつ)天皇です。
元年(572年)
船史(ふねのふびと)の祖・王辰爾(おうしんに)が、鳥の羽根に書かれた高麗からの上表文を解読し、天皇や大臣に称賛されます。
12年(583年)
任那復興の為、百済から日羅(にちら)が召され、様々な策を献上しますが、百済人に謀殺されてしまいます。
この日羅という人は聖徳太子が師事した高僧と伝えられています。
13年(584年)
蘇我馬子が女性3人を出家させて尼とし、仏殿を造営し、仏法を興しましたが、また疫病が流行し、
物部守屋は「仏を崇めた祟りである」と上奏し、仏殿を焼き仏像を難波の堀江に投じます。
しかし今度は天皇と守屋が急病となり、人々も「瘡(かさ)」に悩まされたので、蘇我馬子は仏法を天皇に勧め、天皇もこれを許して、再び仏殿が営まれます。
※当時の疫病は、その症状から天然痘が流行したと考えられています。
そして敏達天皇の崩御後にも、まだまだ蘇我馬子と物部守屋の反目が記されています。
敏達天皇の皇后は、のちの推古天皇で炊屋姫(かしきやひめ)といいますが、蘇我稲目の娘と欽明天皇の間の子で、敏達天皇は異母兄だった訳です。
そんな訳で蘇我馬子は自分の姪の炊屋姫と敏達天皇との間に生まれていた竹田皇子を天皇に立てようとしましたが、皇子はまだ若すぎて、敏達天皇の異母兄弟へと継承されていきます。