雄略4年(460年)2月
天皇が葛城山で狩りをしていると、背の高い人がいて、
その容貌はなぜか天皇とそっくりでした。
そこで天皇はそれは「神」であると気づきますが、あえて
「どちらの公(きみ)ですか?」と尋ねます。
するとその方は
「現人之神(あらひとがみ)である。まずそちらの名を聞いてから名乗ろう」と答えたので、
天皇は
「私は幼武尊(わかたけるのみこと)であります」と名乗りました。
背の高い人も
「私は一言主神(ひとことぬしのかみ)である」と名乗りました。
そこでともに狩りを楽しみました。
日が暮れて狩りが終わると、神は天皇を来目水(くめのかわ・今の高取川)まで見送りました。
この時、民は「徳有天皇(おむおむしくましますてんのう)なり」と讃えました。
今の奈良県御所市の葛城一言主神社は、その一言主が出現した場所に鎮座していると伝えられ、一言主神と雄略天皇が祀られています。
昨日、書店で「歴史道 古代天皇の謎と秘史」というフルカラーページのムックを見つけて、古代天皇の肖像画と継承図も載っていて、『分かりやすい!ちょうどいい!』
と思って買ってきて、
このブログにもアフィリエイトしようと思いましたが、なぜか何度もエラーが出てしまいました。残念。
それによると、雄略天皇は眉輪王の件で焼き討ちした葛城の娘・韓媛を妃にして、その間に生まれた息子を次の天皇にしているんですね。
当時の女性は、自分の親を殺した相手でも嫁がないとならなかった。まるで戦利品のようにさらわれていった。
しかも相手には他にも皇后や妃がいたりして。
もう一人の妻は皇女で、履中天皇の皇后と同じ名です。
同一人物かどうか分かりませんが、
もし同一人物なら市辺押磐皇子を生んだ方で、皇子は子供らが数人いるので、
雄略天皇の皇后に立てられた時には既に孫もいるくらいの年齢であって、こちらの方も雄略天皇に息子を誅殺された女性で、ただ、皇女という身分の高い女性を皇后に立てる事で天皇の権威を増すことになるから選んだのではないだろうか?という気がします。
まさに、そこに愛はあるんか?!と叫びたいくらい。
でもこれは現代人の価値観であって、
当時はそれしか生きる道が無いから従う他無かったのかもしれませんね。
それはそうとそのムックの歴代天皇の肖像画、弥彦神社所蔵のものらしいですが、油絵っぽい感じで、私の反正天皇のイメージと違って白髪で口を閉じてたのが少し残念。
私は歯が立派で天下泰平だったというので、笑顔で白い歯が輝くような健康的な好青年のイメージだったもので。