雄略天皇紀は分量的に多そうなので、何回かに分けて書きます。
さて、安康天皇は眉輪王(まよわのおおきみ)に父の仇討ちで殺されてしまったのでしたが、
その眉輪王を調べたら、允恭天皇39年(450年)生まれ~安康天皇3年(456年8月)で、わずか6歳くらいの時の事でした!
大の大人を6歳の子が討つとは…。
眉輪王は
父は仁徳天皇の皇子である大草香皇子で
母は履中天皇の皇女である中帯姫命(なかしひめのみこと)
父の大草香皇子が罪も無いのに安康天皇に誅殺された後、
母は安康天皇の皇后に立てられ、眉輪王は連れ子として育てられました。
そして運命の安康3年(456年)8月、楼(たかどの)の下で遊んでいた王は、安康天皇と母の会話を盗み聞きして、亡父が天皇によって殺されたことを知り、熟睡中の天皇を刺殺したのです。
その後、兄の坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)と共に葛城円大臣(かつらぎのつぶらのおおおみ)の家に逃げ込んだところ、
安康天皇の弟である大泊瀬皇子(おおはつせのみこ・のちの雄略天皇)が、兄・安康天皇が殺されたことを知って、兵を率いて攻め入り、眉輪王、坂合黒彦皇子、葛城円大臣もろともに焼き殺しました。
さらに履中天皇の皇子・市辺押盤皇子(いちのべおしはのみこ)も謀殺して雄略天皇として即位しました。
ネタバレですが、この謀殺された皇子の子供らが皇位争いや親の仇討に関わらず、行方知れずになった事で、のちに皇統断絶の危機を乗り越える事になる訳ですね。
雄略天皇は、誤って人を殺すことが多く、世の人は
「大悪天皇(はなはだあしくましますてんのう)なり」と誹謗したらしいですが、
埼玉県行田市にある稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には、
ワカタケルという雄略天皇の名が刻まれているそうで、
地方の人々には、そんなイザコザは知らされずに尊敬されていたんじゃないかなぁ?と私は思います。
また、他の巻に比べると神様との関わりの話が多く目立つそうです。
(つづく)
※訂正 すみません、眉輪王ですが、まゆわじゃなくて、「まよわ」でした。お詫びして訂正します。
それから、年齢については7歳とか幼少とかの記述があります。
7歳となっているのは、たぶん数え年で、満年齢だと6歳ではないかと考えられます。
どちらにしろ、そんな小学一年生くらいの年齢で当時の天皇を刺殺し焼き殺された皇族なのでした。