応神天皇の治世14年には百済(くだら)から弓月君(ゆづきのきみ)が渡来します。
この方がのちの秦(はた)氏の祖となります。
次いで翌年 15年にも百済から阿直岐(あちき)が遣わされ、経典をよく読んだので、皇太子の師としました。
皇太子は、「う道稚郎子(うじのわきいつらこ)」と言うのですが、「う」が草冠に兔です。
阿直岐の推薦によって、王仁(わに)も渡来し、やはり皇太子の師としました。
20年 倭漢氏(やまとのあやうじ)の祖・阿知使主(あちのおみ)も渡来しました。
22年 妃の兄媛(えひめ)が故郷の吉備に帰省したので、それを追って天皇も淡路や吉備、小豆島に行幸しました。
28年 高句麗から朝貢がありましたが、その上表文(君主に奉る文書)が失礼だったので、皇太子が破り捨てました。
後世の日本書紀などで文書の事を「ふみ」と言うのは、
この時、皇太子が上表文を踏み破ったことに由来すると解説しています。
31年 伊豆国から奉られた枯野(からの)という船が朽ちたので、それを焼いて塩を作り諸国へ分与し、諸国からは船を献上させました。
しかし、それらの船を武庫水門(むこのみなと)に泊めておいたところ、
新羅の船の失火が原因で類焼してしまい、新羅は恐れて職人などを貢いできました。
また枯野の燃え残りから琴を作ると、その音は遠く響き渡ったので天皇は歌を詠みました。
ちなみに古事記では枯野の話は仁徳天皇時代の出来事になっています。
41年 呉(中国南部)から筑紫に帰った阿知使主に宗像大神のお告げがあり、工女(ぬいめ)を求めたので、兄媛を大神に奉りました。
以上で応神天皇紀はおしまいです。