神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)は、生まれながらにして明敏で強い意志を持っていました。
※狭野神社公式ホームページには、神武天皇のご幼名は狭野尊(さののみこと)で、この宮崎県西諸県郡高原にある神社の元宮がご生誕地と書かれていました。
尊が45歳の時、
「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)以来、この日向の地で施してきた恩沢は未だ遠い国々には及んでいない。そこで※天業恢弘(てんぎょうかいこう)の為に東方の美しき土地に都をおこう」と東征を決意しました。
※天業恢弘とは、天つ神から委ねられた事業を延べ広めること
それは甲寅(きのえとら)年、西暦に換算すると紀元前667年のことでした。
日向を出発した尊の一団は、速吸之門(はやすいのと・豊予海峡)で珍彦(うずひこ)の出迎えを受け、筑紫の宇佐に至ります。今の大分県宇佐市です。
そこで宇佐国造(うさのくにのみやつこ/今の宇佐神宮大宮司家)の祖先である宇佐津彦が一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造って迎えました。
※現代では宇佐神宮の近くの妻垣神社に足一騰宮、足一印岩があって、神武天皇がここに招かれた時に素晴らしいので母神の玉依姫の御霊を祀られたところ、玉依姫がお姿を現し信心を忘れさせないようにその岩に「足一つの印をつけておく」と告げられて、一気に「ともさか山」に騰(あ)がられたのが足一騰宮(あしひとつあがりみや)の始まりでありますと由緒が書かれているようです。
この他に聖跡 一柱騰宮跡も宇佐神宮付近にあります。
いくつか伝承の地があるんですね。
宇佐神宮は、全国的に一番多くある八幡信仰の総本宮です。
次いで崗水門(おかのみなと/今の北九州市)
安芸の埃宮(あきのえのみや/今の広島県安芸府中町)を経て、
吉備の高嶋宮(今の岡山市高島)まで進み、ここに3年留まって兵備を整えました。 (つづく)
※結局、東征は6年くらいかかったとか。
古事記では日向出発後の滞在地を、
足一騰宮、筑紫の岡田宮、阿岐国の多祁理宮(たけりのみや7年滞在)、吉備の高嶋宮(8年滞在)と伝えていますから、
もっと長く15年かかったかもしれないんですね。