この一書も物語は大体同じです。
違う所は、山幸彦の名は火折尊(ほおりのみこと)で、
塩土老翁に海神の所へ行くために用意されたのは舟じゃなくて、
海神の乗る八尋の鰐魚(わに)に相談するというところ。
八尋(やひろ)と言うのは大きいという意味のようですが、
正確に現代で使う寸法でどのくらいになるのかは不明です。
しかもその鰐魚、送るかどうか考えて「8日後に送りましょう」というのです。
自分より一尋(ひとひろ)鰐魚だったら、1日で必ず送れるから、ちょっと海に帰って呼んでくるからって言って海の中へ入り去り、なんと天孫(天照大神のひ孫)を八日も待たせたのです。
それで、海神のもてなし方も少し違います。
この一書の第四では、三つの床を敷いて招き入れてました。
天孫は最初の床で足ふき、真ん中の床を両手で抑え、内側の真床覆衾(まとこおうふすま)の上に胡坐(あぐら)をかいて座られました。
海神はこの様子を見て天津神の御孫であることを知り、畏敬の念を強めたとか。
それから他に違う所は、あの失くした釣り針を返すときの呪文ですね。
第四では海神はまた結構ひどい呪いの言葉と仕返し方法を教えます。
何度も出てくる「まぢち」とは貧しくなれというような意味の呪いの言葉です。
(漢字は貧に釣りの作りの部分が句になっている字です。)
海神は火折尊に
「この釣り針を返す時に『おまえの子々孫々まで、まぢち・狭狭(ささ)まぢち』と言い、言い終わったら三度唾を吐いてお渡しなさい。また兄神が海で釣りをする時に、あなたは海辺で「風招」(かざおき)をしなさい。風招とは口笛の事です。そうすれば私が沖風や浜辺の風を起こし激しい波で溺れ苦しませましょう」とお教えしました。
どちらも瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子同士で、そんな憎しみ合いと復讐の呪い。
しかも確か3つ子だったはずなのに、もう一方どこ?って思うパターンは、
彼らの曽祖母世代でもありました。
天照大御神と月読尊と素戔嗚尊がそうです。
伊弉諾尊が禊で生んだ三貴子だったはずなのに、いつの間にか天照大神対素戔嗚尊の話になって月読尊の出番が少なくなって存在感が薄れたまま次の話へと移っていくという。
すみません、話がそれましたが、そのあとの話もこれまでと同じような流れです。
兄神が溺れ苦しんで助けを乞い、服従する時に
「助けてくれたら子々孫々までそなたに仕え俳優(わざおき)の民となろう」と言って、
ふんどしをつけ、赤土を手と顔に塗り、
「私はこの通り身を汚した。永久にそなたの俳優となろう」と告げられ、
足を上げて踏み歩き、溺れ苦しむ真似をした。
最初に潮が足まで来たときはつま先立ち、
潮が膝まで来たときは足を上げ、股にまでくると走り回り、腰にまでくると腰をなで、
腋の下までくると手に胸をあて、首まで達した時は手をひらひらさせました。
この所作は今に至るまで絶えることなく続いています、という事が書かれてました。
今というのは日本書紀編纂当時の720年頃のことでしょう。
俳優って、今では「はいゆう」と読みますが、こんな古くからある言葉で、元々は罰ゲームみたいだったのですね。
それと、豊玉姫の出産覗かれ恥かいたから子供置いて海の実家に帰らせていただきます!事件の話は、
「これが海と陸が通じなくなった由来です」とされていました。
あるいは豊玉姫は子供を抱いて海に戻り、久しくして
「天孫の御子を海の中に置いておくべきではない」と言って、
玉依姫に抱かせて送り申し上げたともいいます。
最初に、豊玉姫が別れ際に、しきりに恨み言を申したので、
火折命はもう二度と会うことは無いと思い、歌を贈られました。
これは一書第三でも記しましたが、
沖つ鳥 鴨づく島に 我が率寝(いね)し 妹(いも)は忘らじ 世の尽(ことごと)も
訳;鴨の寄り付く沖の島で私が共寝した妻の事は、決して忘れまい。この世の尽きるまで
と、このパターンも父母神の夫婦仲が悪くなって歌詠んだのに似てますね。
ちなみに天孫降臨章 一書 第六に書かれています。
しかしまあ、2代続けて妻に嫌われてる天孫って・・・。
もう少し妻を信じ、女性の気持ちを思いやってという教訓でしょうか。
呪い、仕返し、復讐、服従についても、兄弟間においても徹底的にやっつけている。
今時だと、「人を呪わば穴二つ」だなんて言われ、
どんなに相手が憎らしくても不幸を呪ったら自分に跳ね返ってくるんだよって教えがありますが、いつからそんなこと言われるようになったのでしょう?
日本書紀を読む限り、嫌な奴には血のつながりがあろうとなかろうと仕返しに呪ってる!
日本って、元来はそういうあんまりな場合は呪っちゃってよし!
相手が貧しくなる呪文も伝承ではいくつもあって、呪いに肯定的な国だったのかもしれません。
自分に有利に出来る海神特製・潮の満ち引きを操れるグッズもありましたね。
以上でこの章は終わりです。