高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は、真床追衾(まとこおうふすま)で、
皇孫(すめみま)の天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を覆って降臨させられました。
※まとこおうふすまが、どのようなものであったか?は、「真」は美称「床追」は床を覆う意、「衾」は「伏す裳(も・または、ま)と解され、寝台又は布団のようなものとされます。
この後の話から貴人が着用する玉座、あるいは高貴な乳児を包む「おくるみ」なのでしょう。
ちなみに天皇即位に伴う大嘗祭の時に悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)という神殿内に設けられる神座にも真床追衾が敷かれるとされています。
と、『神話のおへそ』神社検定公式テキストには書いてありました。
私はさすがに寝台で人を覆うのは無理があるから、薄手の長座布団風の敷物か王様のマント的にも使えるようなものを想像しました。
皇孫は天磐座(あまのいわくら)を出発し、幾重もの雲を押し分け、威勢よく道をかき分けて、日向の高千穂峰に天下られました。
そして皇孫は吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狭(かささ)の御崎(みさき)にたどり着かれたのでした。
その地に一人の者がいて自ら「事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)」と名乗りました。
皇孫が「ここに国があるのかどうか」と尋ねられると、
「はい、ここに国があります。どうぞ思うままにおいでください。」と申しました。
そこで皇孫は行って留まり住まわれました。
その国には鹿葦津(かしつ)姫という美しい女性がおりました。
(またの名を神吾田津(かむあたつ)姫、木花之開耶(このはなのさくや)姫とも言います)
皇孫がこの美人に
「お前は誰の子か」と尋ねられると、
「私は天(あま)つ神が、大山祇(おおやまつみの)神を娶って生んだ子です」と申しました。
皇孫がお召しになると、一夜にして妊娠しました。
皇孫はお疑いになって、
「たとえ天つ神であろうと、どうして一晩で人を孕ませられようか。お前が孕んだのは、きっと私の子ではない」とおっしゃいました。
すると、鹿葦津姫は怒り恨んで、戸口の無い産屋を造ってその中に籠り、誓約(うけい)を立てて
「私が身ごもった子がもし天孫の子でなければ、きっと焼け滅びるでしょう。もし本当に天孫の子であれば火も損なう事が出来ないでしょう」と言って、産屋に火をつけて焼きました。
そして最初に立ち上った煙の中から生まれ出た御子を「火すそ降命(ほのすそりのみこと)」と言い、この神は隼人等の始祖です。
次に熱をよけた時に生まれた御子を彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と申し、
最後に生まれた御子を火明命(ほのあかりのみこと)と申します。この神は尾張連(おわりのむらじ)等の始祖です。
その後、時が経って天津彦火瓊瓊杵尊は亡くなられ、
筑紫の日向の可愛之山稜(えのみささぎ)に埋葬申し上げました。
※今でいう鹿児島県薩摩川内市宮内町 新田神社
本文終わり
あと一書(あるふみ)、つまり「その他の説」が第八まであります。