第五段一書第六で、伊弉諾尊が黄泉の国から出て黄泉平坂を磐でふさぎ、

その時に身に着けていた杖や帯や衣や褌(ふんどし)や履物を投げたら生まれた神々がいらして、その中ですぐに祀られている神社が見つかったのが岐神(ふなとのかみ)。

 

こちらは、別名で久那斗神(くなどのかみ)として息栖神社 (茨城県神栖市)に祀られていました。

 

黄泉平坂の伝承地の候補地の一つが島根県松江市にあり、

伊弉諾尊が黄泉の国から帰って、禊をしたのが日向=今の宮崎県の宮崎市にある「みそぎ池」という場所だという言い伝えがありますから、

その地域の神社を調べてみましたが、伊弉諾尊が塞いだ石の前で投げた衣類がご神体の神社は見当たりませんでした。

 

考えてみると、褌まで投げちゃって、全裸ではるばる島根県から宮崎県まで行って禊した設定は無理がある気がします。

 

黄泉の国の出入り口って、禊の場所ともう少し近いところで坂があって地下の洞窟や鍾乳洞みたいなところだったんじゃないか?とも考えました。

 

日本書紀 四神出生章 第五段 一書の第五では、

伊弉冉尊の葬られた場所は紀伊国の熊野の有馬村って明記されていて、

そこには今も花窟神社が実在してお祀りされています。

 

しかし、そこから宮崎のみそぎ池までも、四国挟んで、結構距離がある。

うーん、色々謎が深まります。 

そのまま神話を読むのでなく、何かの寓意としてとらえるのが良いのかもしれません。

 

そのほか、住吉大社をはじめとする全国にある住吉神社の御祭神も、この禊祓で現れました。