こんにちは。

 今日は使徒の働き12:1-25 について学んだことを書いていきます。

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 この内容は礼拝で私自身が聞いたメッセージをもとに、再解釈・再表現した

 内容となります。

 聖書を正しく学ばれたい方は、ぜひお近くの教会へ行き、牧師に説明してもらう

 ことをお勧めします。

 良き教会に導かれますよう、心よりお祈りしております。

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・時系列
「その頃(使徒12:1)」とは、ペンテコステ後

聖霊の働きによって宣教が活発になりクリスチャンが増え、この頃からキリストの教えに改宗する者たちを「クリスチャン」と呼ぶようになりました。
ヘロデは「種無しパン(過越祭)の祭り」の時期にペテロを捕らえ投獄、

祭りの終わりに処刑しようと画策していました。

・政治背景
数を増したクリスチャンたちの働きはとても優秀で、天災や飢饉などの中でも神様からの預言を受けて働いたり、献身的な支援を行い、民衆の人気を獲得していきました。
このような状況はユダヤ人たちにとって都合が悪く、脅威とすら感じられる状況でした。
そして、ときのエルサレムの王はヘロデ家のアグリッパ王でした。
このヘロデの一族は純粋なユダヤ人ではなかったのですが、ローマ帝国との親密な関係を築くことで代々エルサレムを統治する権利を与えられていたのです。
そのため、民衆(=ユダヤ人)からの人気は決して盤石という状況ではなく、常に彼らの心情には気配りが必要な関係にありました。

・ヘロデ王の画策
 ヘロデ(アグリッパ)王は、民衆の人気を獲得しているクリスチャンのリーダー格であるヤコブを処刑しました。
 するとクリスチャンの勢力を脅威と感じていたユダヤ人から大いに喜ばれました。

 ヘロデ王はそれを知るやいなや、さらに中心人物を処刑すべくペテロを捕らえました。
 そして祭り終了後の人が多くいる時期を狙ってペテロを処刑し、さらにユダヤ人の人気を獲得しようと画策したのです。

・ペテロに起きた奇跡
 ヘロデ王はクリスチャンたちが多くの奇跡を起こしていることを知っていたため、

  ぺテロが脱獄できないようかなりの厳戒態勢を敷いて警備をさせました。
 しかしクリスチャンたちの熱心な祈りのもと、ペテロは聖霊に導かれ牢から出る

 ことができ、兄弟姉妹のもとに自分の無事を知らせに行くことができました。
 ※牢から解放される様子は使徒12:6~記載されていますが、兵と戦ったり逃げ回ったりしていません。これは兵たちにとっても奇跡としか言いようのない出来事です。
  彼らはペテロを逃がした罰として処刑されてしまうのですが、その時にもしも

  ペテロの神を信じ悔い改めたなら、天に上っていることでしょう。

そして、ペテロはヘロデから逃れ、宣教の活動はエルサレムからアンテオケに移っていき、「使徒の働き」の中心人物もペテロからパウロに移っていきます。


さて、ここで一つ疑問があります。
最初の殉教者ステパノ、次にヤコブは処刑されてしまいましたが、なぜペテロは殺されなかったのでしょうか??
しかもペテロはこの時だけ助けられました。ペテロ自身も20年後に処刑されてしまうのですが、その時は助けられることはありませんでした。
なぜでしょうか??

答えは…分かりません。神様の主権の中で事が決められたのです。

しかしながら、一つだけはっきりしていることがあります。
神様は、神様のタイミング・方法で最善をなさってくださるということです。

神様は、わたしたち一人ひとりの裁量を見極め、最善を与えて下さる良き存在なのです。
 

私たちには「神が善である」という信仰を求められます。
今の時代を生きる私たちの信仰の土台は聖書です。その聖書に神は全能であると書かれているので、そこに信仰を置くのです。
信仰とは決して私たちの感情に基づくものではなく、御言葉に土台を置くものなのです。


しかし、その御言葉を読むときに注意することがあります。
①聖書に書かれた表現の解釈について
 ・規範的表現
  規範に則ってやるべき表現 
  →〇〇をしてはならない、〇〇をしなさい という表現においては、そのままの意味で捉える

 ・描写的表現
  実際に起こった出来事がそのまま書かれている
  →書かれた一連の流れと同じようになるべき・すべき… という訳ではない!

  規範的な表現に関してはそのままを受け取りそれらを実行すべきですが、描写的な表現をそのまま再現しようとすることは神の道から逸れてしまいかねません。
  注意が必要です。

②人間の考えやちからで及ばないことを神様はなさる
 神様の奇跡は神の主権のもとに起きます。人間が期待したとき、期待した方法で起きるわけではありません。
 子供がナイフを「美しい」と感じそれで遊びたいと言ったとき、親はどうするでしょうか?物事の判断がおぼつかない子供に危険なナイフを持たせることはないでしょう。
 神の御心はそのような親の目線のようです。

 しかし、もし祈りが神の御心であった場合、人間の想像を超えて不可能と思われるような状況でも奇跡を起こされます。

このような事件が過去にありました。
以前、とあるカルト宗教の信者が「ペテロのように私は水の上を歩ける!」と言って、川に入り溺れてしまった事件がありました。
彼が溺れてしまったのは、彼とパウロの信仰の違いでしょうか?

いいえ、神様の御心であるか否かです。
ペテロはキリストに呼ばれたので水の上を歩くことができたのです。
奇跡はいつも、神の御心のうえに成り立っているのです。


神が見るなというものは見ない、触れるなという物には触れない、神の御心が示すものに近づき、そうでないものから離れていく
そうして神の御心のなかに生きていくことで、祈りは御心にかなうものになっていき、その祈りは聞き届けられます。
そうすると、祈りとは神から与えられるものであったのだということを知ることができます。

「与えられるのなら、わざわざ祈る必要などないのでは?」
と思われるかもしれませんが、それはまた違います。
祈りとは、神と近づく方法なのです。神と親しく交わる方法なのです。

今日も祈りを主から祈りを頂き、御心にかなう祈りを捧げましょう。