どちらのご住職だったか。。。
はっきりとは思い出すことができない。
通夜の読経が終わり、法話が始まった。

人は、とかく、近しい人が亡くなると
あのとき、電話をして声を聞けば良かった。
とか。
もっともっと、話をしておけばよかった。
とか。
もっと優しくすれば良かった。
とか。
こんな風に突然のお別れが訪れるとわかっていたら、もっと○○したのに。
とか。言う。
自分を責めているのか?
後悔しているのか?
取り戻せない時間に対する慟哭なのか。
死に直面すると、悲嘆 喪失の感情にさらされて、怒りや自責の念に刈られ諦めきれないさまざまな想いが湧き出てくる。
その想いを言葉にすると、たら、れば、になるのかもしれない。
しかし、よーく考えを巡らせてみてもらいたい。
故人は、生半可に一生を過ごしてきたか?
こうして亡くなってしまってから、あーすれば、こーしたら、と。まるで故人の人生に、まわりが勝手に足し算や引き算を用いるような振る舞いをすることは、故人に想いを致すことになるのだろうか?

そんなことをせずとも。
たとえそれが、どんな人生でどんな終焉を迎えたのだとしても。
あー、このお方は懸命に生きたのだと。
あなたに出会えて感謝です、と。
手を合わせることこそが、大切なのではないか?
と、問いかけた。

この法話は、わたしの心を貫いた。
他人様の人生を、自分勝手にジャッジして、更に勝手な足し算や引き算を用いる。
その行為がいかに下品であるか、今まで気づけずにいた。反省した。
私は 死んで尚、誰かに私の人生を勝手に足し引きされるのはごめんだ。と思った。
今日できることは、今日やろう。今、やろう。
それがどんなに些細なことでも明日に持ち越すことはしないと決めた。
あれから、12~3年経つと思う。
とりあえず、今のところ、やり残しはない。
だって。
あした死んじゃうかもしれないから。