美女の国リトアニア

















交差点を歩いている母と子の写真です。

少しわかりにくいかもしれませんが、
きれいなお母さんです。

私の母の若かりし頃とはエライ違いです・・・

でも私の母が悪いのではないのです。

リトアニアが悪いのです。

こういったきれいな人は道を歩いていれば
普通に会います。

これがこの国の基準なので。

リトアニアの女性に「きれいですね」と言っても
すぐに否定します。

周りの友人、知人もきれいな人ばかりなので、
自分は標準だと思っているみたいです(本気で)。

自分のレベルの高さに気づいていないリトアニアの
女性達なのであります。



美女の国リトアニア

















さて、これは何でしょう?

シャッターに描かれているキャラクターが何なのかわかりませんが、
水や雑誌、タバコ、菓子などを売っている街角の売店です。

リトアニアには、こういった売店があちこちにあります。

で、驚いたことに日本では誰でも知っている漫画
「ドラゴンボール」の1巻がこの売店で売っていました。

いやはや、ビックリしました。

最初、目を疑いましたもん。

東欧のこんな小さな店にまでドラゴンボールが広まっているとは。

2巻から先を売っていないのが不思議でしたが・・・

実はリトアニアでは、ちょっとした日本ブームのようです。

日本映画上映会なんてものが開かれて、寅さんで有名な
「男はつらいよ」とか「三丁目の夕日」などが上映されて
いたそうです。

しかも映画館が満員だったらしいです。

すげー。

日本の文化って、日本にいるとそれが普通で、特に
どうってことはないのですが、外国で日本の文化に
ふれると「日本ってすごいなぁ」って思ってしまいます。

身近すぎると気付けなくなる大事なことがあるもんです。

多分、感謝とか人のやさしさとかも同じなんでしょうね。





















写真はリトアニアで3番目に大きい町、カウナスの
メインストリートを散歩中に撮ったもの。


時刻は土曜日の夕方の5時くらい。


普通、週末の夕方にもなると
町のメインストリートは人でごった返すはずなのに・・・


ほぼ無人状態のメインストリートには正直、戸惑いました。


外出しても大丈夫なのか?といささか不安になりながら
散歩していました。


「リトアニアは夜中に外出しても問題ないくらい
 治安が良いと聞いていたのにテロが起こった?」


「ひょっとして細菌兵器がまかれた?」


「みんなどこかに非難しているの?」


「法律で外出してはいけない時間帯なの?」


と、ネガティブな妄想が膨らむばかり。


あとで聞いてわかったことなのですが、
リトアニアの人々は週末に家族そろって
家で過ごすことが習慣になっているそうです。


家族と離れるつらさを知っているリトアニアの人々らしい
一面が伺える景色です。


散歩中に一番人が多かった写真はこちら。
















やっぱり少なすぎる・・・



















前回のブログでは、約170年前から十字架が立てられるように
なったことを伝えました。


現在、この『十字架の丘』に残されている十字架は
古くても30年前のものです。


今日はなぜ、30年前の十字架しか残っていないのか
話していきます。



1831年からロシアによるリトアニア人の処刑、
2度と帰れぬシベリア流刑があったわけですが
第一次大戦後はソ連の撤退でリトアニアにも平和が
訪れたようです。(ロシアは1922年にソ連となっている)


しかし、それも束の間。


1940年にソ連軍が再度リトアニアに進攻し、併合されてしまいます。


ソ連に反発するリトアニア人狩りは、
シベリアへの流刑という形で行われていたのですが、
その人数は5年間に数十万人にもなっていたようです。


その度に増える十字架・・・

リトアニアの人々はこの丘へ十字架を立て、ただ祈るのみ。


それも許さなかったソ連は「十字架の丘」を禁域としました。


1961年、1973年、1975年と3度にわたりブルドーザーで十字架を薙ぎ倒し、
焼き払い、この丘の十字架を完全に撤去してしまったそうです。


昔の十字架の写真はこちら
 ↓
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20070323_cross_hill/


倒され焼かれても、その度にリトアニアの人々は家族を思い、
夜中に十字架を立てました。


リトアニアの役人もこれは黙認していたそうです。


無数の十字架は家族を思う気持ちが形となっています。


1985年には完全に平静な聖地となったそうです。


リトアニアは1990年に独立宣言をしましたが、
それまでの60年間に、流刑者は100万人にも達した
といわれています。





















家族が殺された悲しみによってこの十字架の丘は生まれた。


いつから十字架が立てられるようになったのか
正確なことはわからないらしい。


リトアニアは過去2度ロシア・ソ連に併合、進攻されています。


最初は1795年、ロシア化政策の強要。


堪りかねた市民達は、1831年にロシアに対し
反発の行動に出たようです。


それに対して、ロシアの報復、迫害の日々が繰り返されました。


処刑、2度と帰れぬシベリア流刑。


その頃からこの丘に十字架が立ちはじめました。
(古い記録によると)


処刑された人、流刑された人、その家族や知人が
十字架を持ち寄り、祈りの場になったとのことです。


この丘の無数の十字架が、痛みの深さを物語っていました。


私には自分の家族が殺されたら、どうなるのか想像できません。


ただ、この丘が、ついつい忘れがちになる
今ある幸せの大切さと家族のありがたさを教えてくれました。


感謝の気持ちが自然に溢れてきます。



そんな十字架の丘ですが、当時立てられた十字架は
写真に収めることができませんでした。


一番古い十字架が約30年前のものになります。


なぜか?


それは、また今度。