終戦から70年。


夫の家族は
空襲被害も無く、
兵隊になる事もなく、
あまり、
戦争の被害を知りません。



私の祖父母は違います。



祖父は中国へ出兵。

祖母は
東京の小学校教師だったため、
小学校→軍備工場の監督として
武器を作り、
子供達に戦争の教育をした教官。

のちに

祖父は
大連から帰国して
横浜で終戦を、

祖母は
東京大空襲を生き抜いて
終戦を迎えました。


この2人が
生き延びてくれたから
今の私がいます。


不思議なことに、

祖父母ともに、
アメリカに憎しみはなく、

というか、

祖母に関しては
弟を戦争で亡くしているのに、
憎しみを抱かず、

むしろ、

真実を知るために
何度となく
サイパンや、
テニアン島に渡り、
戦没者を弔ってきました。


祖父母は
大変豊かな家だったので
祖父の定年後は、
年に数回ペースで
海外旅行をし、

世界中、
ヨーロッパから
アジア、アフリカまで、
くまなく回りました。


教師の祖母、
何気なくグーグル検索をしても
漢字名だとヒットしなかったけど、

英語表記にしたら、
オーストラリアの
ニュース記事に載っていました。

グローバルな
おばあちゃんでした


私と兄を
何度となく
グアムやサイパンに連れて行き、

いまでも、
青く綺麗な海に沈む
日本の大砲を見せてくれたり、

防空壕や、
日本人が
集団自決した場所へ
案内してくれました。


当時は、

何気なく、
祖父母に連れられ、

バカンスを楽しむぐらいの
軽い気持ちだった私。


でも。

今になって
サイパンなどの
戦争の爪痕が
思い出されて
涙が止まりません。


敵国だったアメリカ。


関係悪化していた
中国や、韓国。


でも、
祖父母は、

戦後の横浜で、

受け入れ先のない
中国・韓国留学生のために
下宿を受け入れ続けました。


近くに
国立大や、市立大が
あったのですが、

日本人向けの下宿はあっても、
中国・韓国留学生のための
下宿がなかったのです。


中国に派兵された祖父、
小学校教師だった祖母、

路頭に迷う中国・韓国人留学生を
見ていられなかったそうで。



また、

横浜はアメリカ軍人も多く、
アメリカ人との交流も
進んで行い、

祖父の弟一家は
アメリカへ移住しました。


私の中で、

どの国が『良』で、
どの国が『悪』だかは
分かりません。


でも、

人間 対 人間 は、
平等だと思ってます


今日は

戦争で命を落とされた
全ての方に、
私の涙が伝わりますように。

全ての方のご冥福をお祈りし、

これからの未来、

私たちが
子供達へ、

子供達が
その子供達へ、

戦争の記憶を
語り継ぐことが大切だと思ってます。



戦争の被害のなかった夫家系は、
今日はお盆。

私たちも
三日前から、
夫方のお墓をお参りし、
今日もお墓参りの後
義母から差し入れのあった
三河産鰻の蒲焼でごはん

{CE29A288-81D0-4CE1-AEA1-39EDA7EA96B2:01}

ご飯が
お腹いっぱい食べられる幸せ。

ありがとうございます