いかなる法門であろうとも、忍耐の心さえあれば成果を得ることができる。


◎ 一九七六年三月十五日

七日間の観音法会における宣化上人法話



無量劫(はかり知れぬほど長い時)の間、生まれてはまた死し、死してはまた生まれて、百千万劫ほどの長い時間を経ても、観音法会に巡り合ったことはなかった。ゆえにわれらの悪癖・欠点はいささかも減ることはなく、無明・煩悩は日一日と増えていったのである。そして今、観音法会に巡り合うことができたのは、無量劫以前に積んだ善根が今日に至ってようやく熟したため、この玄妙不可思議な法会に参加することを得たのである。善根を積まず、徳行無ければ、この七日間の観音法会に加わる機会は無かった。したがってこの七日間の尊い時間を無駄にしてはならず、妄想にふけって空しく時を過ごしてはならない。もし下らない考えばかりにふけっていると、この法会に参加したとはいえ不参加に等しい。なぜならば何も得るところが無いからである。



この法会は始まってまだ2日であるが、私は知っている、すでに菩薩を、光を目にした人がいることを……様々な不可思議な境地が眼前に出現しているのである。また、まもなくを開かんとする人もいる。したがって、まだ得るところがない人は、大いに恥じ入るべきである。自分が何も得られていないから、他の人もみな同じだと思ってはならない、そうではないのである。


金山聖寺はまた、砂の中から砂金を探し出す作業場であるともいえる。真の修行をしたいと思うものは金山聖寺を離れてはならず、他の修行の場を探すことは難しい。金山聖寺にいる人は皆、菩提心を持つ修行者であり、たとえ極めて困難な環境下においても、修行に努めなければならない。


修行のための法門は、八万四千と大変多い。いずれの法門についても少しは理解するべきであり、ただ一種について知るのみではいけない。それぞれの法門について少しずつ知ることができれば、やがて時間がたつうちに、すべての法門について理解することができる。ただ一つの法門について知るだけでは、大海の如く深い仏法の境地を理解することは容易ではない。あたかも愚人が「管の穴から天を覗く」ようなもので、天は管の穴のような大きさしかないと思ってしまうのである。もし竹の管を用いることなく、天はどれほど大きいかを見ようとしたらどうするか?したがって仏法を学ぶときは、一種類の法門についてのみ学ぶのではなく、さまざまな法についてすべて知り、理解すべきである。今行っている七日間の観音法会は仏法の中の一部分である。この法の修行を行ったことが無ければ、必ず一度試してみるべきである。試してみなければ、これを修めることはできない。もしこの七日間の修行を満了することができれば、必ずや心身に益するところがあるであろう。皆この好機をみすみす逃さぬように!


菩薩は六度万行の修行を行う。六度(六波羅蜜)とは:


(一)布施:自身が他者に対して布施を行うのであって、他者が自身に対して布施を行うのではない。



(二):現在七日間の観音法会を行っているわけだが、この場合あなたが忍耐できるかどうかということが重要である。忍耐できれば、七日間の観音法会の行を無事に達成することができる。忍耐できなければ、朝から晩まで下らないことを考え続けることになる。たとえば、「もう少ししたらどこか料理屋に行ってたっぷり食事をしよう」、あるいは「ここで観音に祈っているのが何の役に立つのだろう?まったく馬鹿々々しい話だ、さっさと逃げ出そう!」などである。こういう考えはみな忍耐が無いからである。忍耐ができない人は道を修めることはできない。座禅の修行を行うのもよし、念仏を唱えるのもよし、観音菩薩に祈るのもよし、これらはみな同じ法門であり、根本では違いがないのである。



いかなる法門であろうとも、忍耐の心さえあれば成果を得ることができる。忍耐の心が無ければ、どんな法門であろうと修めることはできない。忍耐の心が無いと、しばしばこれは違う、あれもだめだ、となり、何をしても意に沿わない。それでいったい何を学ぶことができるだろうか。道というものは、我見無く、我執無きものである。執着があると永遠に道を修めることはできない。「私は参禅したい」という人がいれば、参禅はなおさら忍辱の心が必要なのである。



(三)持戒:すなわち「諸悪莫作、衆善奉行」(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう、諸々の悪をなさず、諸々の善きことを行え)ということである。



(四)精進:すなわち懈怠が無いということである。



(五)禅定:我々が観世音菩薩に祈るのは、すなわちわれらが禅定を得ることを観世音菩薩が助けてくださるように祈るのである。



(六)智慧:禅定を得ることができれば智慧が生まれる。すなわち六度は互いに関連しているのである。



「わたしは専ら禅定の修行をするのが好きです」という人がいるが、わたしはその人に告げる、あなたに禅定の修行の方法を教えよう、すなわちいったん禅堂に入ったら、何があっても禅堂から一歩も出てはならないということだ、と。「もし病気になったらどうするのですか?」と聞かれれば、病気になったらなったまでのこと、病気があっても参禅しなければならない!死んでしまったらどうするのですか?たとえ死んでも、禅堂の外に担ぎ出してはならない。参禅していた人が死んだ場合は、その死体を空いた座蒲の下に置く。たとえ死臭がしてきてもそのままで、外に出してはならない。たとえ死んでも出ていくことは許されないのである。「それでは監獄と同じではないですか?」と問う人がいる。監獄と同じ?あなたはまさか、今自分が監獄の中にいると感じていないのか?すべての人は監獄の中にいる、ただ自分でそれを知らないだけである。あなたのは出ようとしても出られず、戻りたいと思っても戻れない。出てしまえば戻れず、戻れば出られなくなる、これは自由であろうか?すべての人の身体は監獄である、ただあなたがそれを知らないだけである。



我々が現在座禅をする場合、いったん禅堂に入ったら禅堂から出ることはできない。出たら警策で頭や背中を打たれる、それが行である。七日間の観音法会も同じで禅堂から出ることは許されない。出てしまったものは誰でも打たれることになる。なぜあなたはここに来たのか?「わたしは法会の知らせを見たので来たのです。」という人がいる。しかしその法会の知らせには、参加者が途中で出ても良いとは書いていない。出たかったら出ても良いのだが、その場合は全員の分の食事代を払わなければならず、それをしない場合は出ることは許されない。なぜか?あなたが出れば、あなたのそばにいる人もあなたが出たのを見て一緒に出るだろう。あなたが出て、ほかの人も出て、全員が出ていくとなれば、これは道場の破壊である。あなたは道場破壊の罪を償うために、全員の食費を負担しなければならないのだ。もし払えないというのなら、出ていかないほうが良い。



あなたがたは皆、縁あってこの金山聖寺にやってきた。もし縁が無ければ、金山聖寺の門さえも入ってくる方法はなかったであろう。縁があるからには、みな観音法会の友となろうではないか。みなで手を取り合って、共に前に向かって歩みを進めよう。どこに向かうのか?それは、一人一人が心の中で行きたいと願う場所へとである。われわれはみな、他の人々を助けなければならない。こういうことを言うわけは、皆が道を間違えることを私は恐れるからである。