私獸木野生の母(上写真/25歳当時)はPALM読者の方の間ではアンジェラ・バーンスタインのモデルとして知られていると思う。
アンジェラを知らない方のために解説すると、客観的で独立心が強く、三人の尋常ならざる個性の主人公たちと家族として暮らしながらも常に一線を引いて、彼らの人生に巻き込まれたり深入りしたり過干渉することなく、しかも利他的でしっかりと自身の責任を果たして実は彼女が家を切り盛りしているというスーパーな女の子だ。
おまけにPALMは普通の家庭ドラマではないので、よくCIAとかが出てくるハードボイルドな展開になったりするのだが、比較的平凡な女の子なのに全く動じる気配はない。
*作者の生活を紹介したショートエッセイ漫画「たすくくんちりぬるを」(1993)より/アンジェラの姿で登場した母本人(結局飼い猫となった猫フロイドの里親探しをしていた時、当時の編集者のフジモリ君に頼んだら親身になってくれたというエピソード)
モデルといってもたくさん出てくる警官の一人を知り合いの容姿で描いたりするのと違い、14歳で書き始めてPALMが世の中に出るまでの間にだんだん影響が現れてアンジェラが母に似ていったという、自然発生的なもの。
全ての母は子に対して偉大な影響力を持っているが、獸木野生が獸木野生たるのはかなりの比重で母のおかげだ。PALM風に言えばJBの人格形成に多大な影響を及ぼしたとされる乳母マリアのような存在。
正義感、誠実さ、金銭や物、ステイタスへの頓着の薄さ、大局的で割り切った考え方、母からはそういった得難い贈り物をもらった。
母は2017年8月5日に、3年余のほぼ寝たきり生活ののち、原発性硬化生胆肝炎という病気を患い、肝硬変で死んだ。
私の人生の中では間違いなく最も偉大な存在である母。
そんな彼女も、他の全ての生き物と同じに死んだ後は存在がなくなり、この世の記憶から失われてゆくだろう。
だからその前に、母のことをここに書いておく。
彼女は昭和9年、1934年に双子の片割れとして生まれた。双子は昭和の文字をとって昭子と和子と名付けられたが、昭子の方はお産の時に亡くなった。
9人兄弟の上から3番目。第二次大戦末期に子供時代を過ごし、下の兄弟の世話をしなければならない立場で苦労したが、学校が大好きで、少女時代は学校や演劇部などの活動に活発に参加した。
中学卒業後上京して就職したが、結核を患うなど、体が弱かった。
二十歳を過ぎたどこかで25歳年上の私の父と結婚。
*実の父と母と獸木
父にとっては3回目の結婚で、最初の妻との間に二人、二番目の妻との間に三人の子供がおり、母はそのうち四人と暮らすことになる。
一番下の息子が母よりわずか9歳年下で、母の一番末の弟より年上だったので、子供たち、つまり私の兄や姉は母を「お姉さん」と呼んでいた。
私を産んだ時母は25歳。父は50歳。私と一番歳の近い兄が16歳。
私でもちょっと想像できないような環境である。
一言でいうと良妻賢母で強く厳しい母。でも良い面も強い面も私は他に例を知らないくらい吐出してると思う。
料理上手で生活に余裕がなくても毎日美味しいものをしっかり食べさせてくれたり、就寝時にお話を読み聞かせてくれたり、夜中に母の布団に忍び込むと優しく迎えてくれたりしたけれど、普段はほぼ笑った顔も見た記憶がないほどクールで、どんな理由があっても泣いて帰ってくることは許されず、「泣いて帰ってくるな!」と怒られた(と母本人に聞いた)。
私の生家は門から庭を10メートルくらい歩いた所に玄関があったのだが、母がおさんどんをする台所から門が見え、私はたまに泣いて帰ってくるとその門のところで必死に涙をぬぐい、何事もなかったように笑顔で「ただいまー!」と玄関を入ってきたのだそうだ。
父の妻の中では最も若かった母だが、最も気が強くもあり、酒乱で私以外の兄弟や母には暴力的だった父が私にだけは手を出さなかったのは、歳をとってやや丸くなっていたからもあるだろうが、主に母が強面だったからに違いない。
夕方早い時間に父が酔っ払って帰って来、台所にいた母に絡んで母の母(私の祖母)の悪口を言って、ヤカンにグラグラ湧いていたお湯を浴びせられたこともある。ただこの時は母自身も熱湯を浴び、二人でしばらく寝込むことになった。私はものすごく幼かったのだが、二人が床を並べてウンウン唸りながら寝込んでいる絵を覚えている。
家にまだ電話がないころで、この時私は小銭を持たされて、伯母に助けを求める電話をかけるため近所のタバコ屋に派遣されたそうだ。おそらく生まれて初めてかける電話。「お腹すいた」と電話口で私が言ったと伯母は言う。
基本古いタイプの日本人女性の母はこの話をすると実は嫌がるのだが、この話は外国人の友達などにはサムアップの称賛を受ける武勇伝で、母がどれほど強いかを書き残すのには欠かせないエピソードだと思う。
強い話や、好き嫌いがものすごく激しくはっきりしていた話ばかりだと怖くて頑固で難しいだけの人間みたいに聞こえるが、母は厳しいけどとても利他的な、つまり態度は優しくないけどすごく思いやりのある人で、どこでも誰からも人望があり、「そんなことどうでもいい」「やめちまえ」とかつっけんどんなアドバイスしかもらえず、しまいには「その話はもう聞きたくない」と突き放されるのに、いろんな友達がいつも相談や愚痴の電話をかけて来て、母が延々応対していたのを覚えている。
母にとって私はずっと素直で活発な子供だったが、15歳で「漫画家になるから高校へは行かない」と言い出したあたりから想定外の存在となる。
翌年私が実際に高校に行かず、漫画の専門学校生だった時に両親が離婚(正確には私の海外研修中に離婚し、私は帰って空港で来て初めて知った。この辺りの詳しいことはオフィシャルホームページのバイオグラフィをご覧ください)、母は文字通り女手一つで理解不能な存在になった娘の面倒を見ることになる。
獸木野生バイオグラフィ:
http://www.magiccity.ne.jp/~bigcat/BIO00.html
ついでに書いておくと、父の方は離婚後一ヶ月かそこらで四番目の最後の奥さんと結婚し、1985年、私が25の時に他界した。父は最後の奥さんとその時たまたま見舞っていた私が最後を看取っている。
さて、私が10代であったこともあり、このころは母と私の関係の最低点だったが、私がこの後23歳にかけて結婚して出産して離婚して漫画家になる過程でだんだんに私の母に対する見方や立場が変わって関係が良くなってゆき、二十代半ばで生計を担えるようになったころから、母が新しい父と結婚するまでの10年ほどの間、私が旦那で母が奥さんのような関係が続く。
今思えばその時代が母と私の蜜月で、私が母への愛を強く自覚するようになったのもそのころ。以前は滅多に笑わなかった母を笑わせたり、何も欲しがらない母を喜ばせるような贈り物をしたりすることが自分の大きな喜びとなって行った。
*獸木(左)がまだ結婚してた時の母と息子タスクとの写真
母が双子の片割れの昭子と同じ字の昭(あきら)と言う名前のステップ父と結婚した後、自分が36の時に私はオーストラリアに行くのだが、4年で帰って来た最大の理由は、私の不在中に母がどこも悪くないのに咳が止まらなくなったりして、体が弱って行ったからだ。
入院してからも最後まで毎日病院通いをしてくれたような優しいステップ父と暮らしていたけれど、この時、母は自分がいないとダメなんだと感じ、帰国後も母の近くに住むことに。
足腰が弱く、一年ごとに腰をひねったり、椅子から落ちたりしたために、最後の三年くらいはほぼ寝たきりだった母。
初めは人に体を触らせるのも拒んだが、本格的に動けなくなると、加須の原発事故被災者の方の炊き出しボランティアで覚えたなんちゃんってリフレクソロジーなんかを喜んでさせてくれるようになった。昔の強面の面影はもうなく、母の好きなものを差し入れると、ひたすら笑顔で「ありがとう」と言った母。
優しい母も素敵だけど、あの強面の頼もしい母がもう一度見られるものならと思い描いた日々。
意識がなくなってゆき、母の呼吸が弱くなって止まってゆくのを長時間見つめ続けた最後の三日間、ほとんど息ができない窒息のような状態で、時に叫び声にも似た声をあげて悶絶しながら生かされている姿は残酷なほどで、まるで横で見てる自分が死神のような気がしたり、自分も実際に体がどんどん冷たくなって、一緒に体が機能しなくなって死んでゆくように感じたりしながら、同時に若く美しい姿でミュージカルみたいに歌い踊る母を夢見て彼女の自由と解放を心から願った。
彼女は今、不自由になった肉体を解き放たれて光り輝き、羽ばたいていると思う。
そして5年くらい前まで、母がいなくなったら家族がいなくなり、一人ぼっちになってしまうからもう生きていけないかもと思っていた自分。
この5年くらいの間に始めたボランティアの仲間が、いつのまにか家族のようになって、実は母が亡くなった当日もたまたま仲間のクリストフが、私に代わって主催者代行してくれたその日のイベントの寄付金を届けるついでに家に泊まってくれていた。
母の死の直後遺体とともに葬儀屋に連れて行かれ、夜中まで葬儀について話さねばならず、憔悴しきって帰った家に誰かがいてくれたのは本当に救いだった。
またあのハリーの彼氏犬ユウくんの飼い主ユウママが、母の危篤時から告別式が終わるまでお家でハリーを預かってくれ、本当にありがたかった。
お通夜には仲間のその子さんとゆっきーも駆けつけてくれ、ワーホリでドイツに行ってる恭子ちゃんもLineで励ましてくれ、AIDの守り神紫水さんに至っては、母が寝たきりだったころからずっと見守って、最後まで暖かいたくさんメッセージを送ってくれた。
みんなほんとうにありがとう。
母の存在は大きいので、死も含めてその全貌はまだ見えていない。
でもただ悲しみや涙、喪失感だけ、またはそれをメインのテーマやムードに母の物語を締めくくることはできない。
だってこれは壮大で素晴らしい物語だから。
たとえ悲劇であっても壮大で素晴らしい物語が残すものは大きな感動。
私も今その衝撃の中にいる。
ありがとう、お母さん。
でもって母のお通夜の前日、獸木家の庭の上に現れた二重の虹