…「心ひとつの置き所」なーんて言いますと。

「なんだ、“うつ”ってやっぱり気のモンなんやん。」と誤解されると困るんですが。
そういう一般論ではありません。いつも通りびっきぃ自身の個人的な状態のコトです。

脳の情報処理器官としての機能異常が、うつ“症状”のひとつ、というようなコトを以前にも書きました。
そいう機能異常がある時点では、「心の置き所」どころか、「心自体を見失っているような状態」なんですね(びっきぃの感じでは、ですが)。

それが回復してくるにつれて、現在のびっきぃの状態はというと。
「脳の情報処理器官としての機能」は、ほとんど病前の状態に戻っている。薬はまだ必要だけれど。

一方で、「心(というか感情?)」はというと、まだ不安定。
どーしても「無気力感とその元になっている喪失感や不安感、悲しみ」といったものが、何かきっかけがあれば戻ってきてしまう。
そーすると、「情報処理器官である脳」の「思考」までネガティブになってしまい、さらに心(感情)が不安定になっていく。という悪循環。

で、それをどうにかしましょう、というのが「認知療法」なわけですね。
出来事→自動思考(無意識の心の反応)→ネガティブな感情、という流れの中で、「自動思考」を「無意識の心の反応」に任せずに、コントロールしようじゃないの、という考え方です。

そして「無意識の心の反応」を「自動思考」と言うように、コントロールしてネガティブな感情が発生しない(もしくは和らげる)「意識的な思考」を「適応思考」と言います。

んで、本題(あいかわらず前置き長いって)。

現在、びっきぃの「適応思考」の根っこになっているのは「すべてのものは愛(と呼ばれる神秘的なエネルギー)でできている」であり、「この世であれ、あの世であれ、“生命は永遠”だ」という信念(信仰?)であります。信仰って言っても宗教性は全く無くむしろ哲学に近いのかもしれないですが。

この信念は、ここ数年(長くみれば10年)いろんな本を読み、考え、経験し、たどり着いた、今現在の信念です。

で、この「信念」と「適応思考」がどうつながるのか、というと、この「信念」には最近大流行りのいわゆる「引き寄せの法則」が含まれているからなんです。

あ、お若い方に敢えて申しますと、「引き寄せの法則」という言葉はともかく概念自体は遥か昔から人間社会に存在しています。
最近では「神との対話」シリーズや、少し古いとナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」、といったような書籍が山ほどありますし、紀元前の古文書からも同様の概念が見つかっているほどなのです。

つまり「引き寄せ」の究極的な対象は、「いかに幸せに生きるか」という非常につかみどころの無い哲学的なテーマだと思うんです。

んで、です。
ここで、びっきぃが最近陥っていた問題点。

「いかに幸せに生きるか」という「大きすぎる」テーマを意識することは良いとしても、それによって「現実の世俗的な願望」というものをあまりにも軽んじていたな、と気づいたのであります。

いわば「死ぬときに満足できるか」ばかり考えて、「今日、気分良く過ごすこと」を考えていなかった、というような。
…そーいえばイエス様もお釈迦様も「明日を思い煩うな」って言ってたな。。。

まあとにかく。
「今日、気分良く過ごす」ためには「世俗的な願望」を少なからず満たす必要があると、さらに思いました。

ではびっきぃが「今日、気分良く過ごす」ための「世俗的な願望」ってなに?というと。

やっぱり、人に認められたい、愛されたい。そして人を認め、愛したい、役に立つことをしたい。というコトのようです。

突き詰めれば、「自分は存在していてもいいんだ。」という自我を支える、具体的な証拠(?)が欲しい、と。
確かにごく最近になって、「ありのままの自分を自分で認める」ことの意味が判り、できるようにはなってきています。でも残念ながらまだ強固な信念にまでなっていない。

まだまだ「周囲からの承認」という「支え」が必要な段階なんだな、と。

という中で出会ったのが「ザ・パワー」という最近出た本。「ザ・シークレット」の著者の新刊です。
その中の一文に「具体的な証拠」を見つけました。

今は手元にその本が無いので引用という形は取れませんので、びっきぃの解釈を含めて説明しますと、

全てのものは愛(というエネルギー)によって創られたものである。目の前のコンピュータも、通勤に使う電車もそのモーターも電気もコンクリートも、あらゆるものは、「こういうものがあれば人々の役に立つ」という「愛」が背景にあって創造されたものだ、ということ。

もちろん、例えばライト兄弟が人類のために飛行機を創ったのか、と言えば「?」でしょう。彼らはただ「空を飛びたい」と思っていただけかもしれません。
でもその発明が今ビジネスという形をとって世界中に欠かせないものになっている、ということは、どこかに「愛というエネルギー」が働いていると思うんです。

つまり、利用者の便益になっているということは、そこに「愛」が存在する、ということです。
で、今の社会はそのお礼に金銭を払うシステムになっている、ということで。

そう思うと、「愛」によって創造されたものから便益を受けている、ということは「愛されている」ことに他ならない、と。

何も「他人」に認められなくても毎日あらゆる「愛というエネルギー」が結晶化した物事に囲まれて生きている(生かされている)じゃないか、と感じだしたのであります。

その気づきが、びっきぃにとっては「具体的な証拠」になってきました。

そして、その「愛」を感じるように意識するだけで、ネガティブな自動思考から簡単に開放されるように感じ始めました。

この「愛を感じるように意識する」ということが、中村天風師の言う「心ひとつの置き所」なのかな、と思うこのごろなのであります。