コロナとかインフルとかヒトパピローマとかハンタとかエボラとか…

未だにそんな、ウイルスとかいう病原体がいると信じている人っているの?

 

カルトーーーーーーッと、怪しげなものを信じることを目の敵にする人がいるのはわかった。

よくわかった笑い泣きアーわかった笑い泣きソレわかった笑い泣き

 

 

その標的は宗教みたいだけど、このウイルスという新興宗教はいいの?

教祖がいて、権威が付いて、組織があって、脅しがあって、 保身があって、莫大なカネが動いて、奴隷がいて…って一緒なんだけどな?

仕事の一つに「玄関の落ち葉掃きをする」というのがある。

 

玄関は客人が入る正面玄関と、社員が入る玄関が二つがってあって、社員が出入りする側の落ち葉の量がすごかった。

そこはトンネルのようなコンクリートの通路の中にあり、近くに木なんかないのに不思議に思っていたら、トンネルを抜けたところにある溝に、隙間なくあふれるくらいの落ち葉が溜まっていた。

大量の葉っぱは、そこからビル風に舞って飛んできていた。

その、おそらく手付かずだったであろう溝を掃除したら、以降、履いても履いてもキリがなかった落ち葉掃除が不要になった。

代わりに溝を掃除すればいいんだけど、毎日やれば数分で終わる。全然大変じゃない。

 

ところがですよ?

突然、溝(というより落ち葉入れ)がキレイになったことで上司に

「海さん、側溝の掃除したの?誰かに言われたの?そこは契約に入っていないんだよね、一旦やめてくれる?」

と言われてポカン?としてしまった。

 

いや、玄関がきれいになればいいんだよね?

その原因が放置された溝だったんだよね?

それを解決させたのに何が問題?

 

しかしそこは、誰の分担だとか契約書がどうたらというのが何より重要みたいで、掃いても掃いても徒労に終わる玄関をマニュアル通りにやるのが正解?らしい。

 

私は言わずもがなそういう無駄が大嫌いであるが、いわゆる大きな会社組織ってこういうところと思う。

久しぶりにその謎に出会って、「ああそう言えば」といろいろ懐かしく感じた次第ニヤニヤ

仕事中はやはり左脳モードになるという人が多い中、私は仕事中こそが最も無心で、頭がからっぽ状態になる。

昔は「仕事は身体で覚えろ」(昭和?)と言われた気がしたけど、まさにそんな感じ。

時代はそれから、仕事といえば身体より頭みたいに左脳的になっていたと思いきや、昨今は「そういう仕事はAIに任せよう」となっているそうで、もしかして最新なのかも笑い泣き

 

 

ちょっと前までは「自分の頭で考えよう」が空前のブームだったけど、自分の頭で考えることってほぼ過去か未来のことで、断言するわりに事実かどうかもわからなくて、何せその時の感情と狭い価値観のセットであるからコロコロ変わって、何より疲れる。

 

自分の頭で考えるって神みたいに言うけど、それってエゴだったっていうオチ。

関西でいうズッコーンで終わらせればいいんじゃないの?知らんけどニヤニヤ

 

 

大丈夫。

考えても考えなくても起こることは確定しており、自分の頭で考えていたら過去は違った、なんてない。

その時はそういうシナリオで、それがベストで、それしかあり得なかった。

起こることは必要・必然で、すべて意味があったのだ。

これからも、考えようが考えまいが、確定している未来が、今この瞬間に現れる。

決して「今の自分が自分の頭で考えるか否かで、未来が決まる」なんて緊張した戦闘態勢にならなくていい。 

そんなコントロールはしなくていいのだ。

 

 

今、いろんな意味を含めて、対話ブログとか(遠い目)も含めて、関わった全ての人にエールを送りたい。

仕事は肉体労働ではあるが、重労働というわけではないので、心地よい疲れで終わる。

仕事中は特に頭はカラッポで、そりゃ段取りくらいは考えるけど(笑)、ただ黙々と作業をこなしていく。

余計なことを考えず、誰がどうのみたいな煩わしいことにも無縁で、ただ目の前にあるものを次々にキレイにしていく…これが精神衛生上わるいわけがなく、こんないい仕事はないと満足している。

きちんと整備された最新のオフィスビルに、上司、同僚とも関係は良好で、深い感謝しかない。

 

しかし、必要以上に喜ばず、はしゃがず、求めず、モチベーションが上がったりも下がったりもせず、ずっと淡々といることが目標である。

 

話は変わるが、「エリート社員が窓際に追いやられる」みたいな話は、私はドラマでしか見たことがなかった。

が、今の職場で(本人ではなく聞いた話だけど)、何か問題があったらしい社員が、退職か「今後の仕事は社内のトイレ掃除とゴミ捨てだけ」という選択を迫られて、後者に回った中年男性を二人知った。

事情を考えたら当人たちは愉快ではないかもしれないけど、私は思う。

 

同じ職場で同じ清掃をしていて、私はやり甲斐があってめちゃくちゃ感謝している。

せっかく採用されたんだから、人に喜ばれるようなスキルとクオリティを身に着けたいと願っている。

無駄のない効率を考えることや、仕事が上手くなっていく嬉しさや、きれいにする達成感…楽しさを挙げるとキリがない。

私が軽やか(ただのアホ面かもしれん)な反面、彼らが辛そうだったり無気力だとしたら、そんなの自分次第でいくらでも変えられると。

やっていることは同じであるから、それはただの事象なだけで、楽しいかどうかは当人の意識次第でどうにでもなるよ?と。

 

これはかなり本気で思ってる。

S問題にアンチが沸いたのは、何をさておき「シンドイから」だった。

生きているといろんな悩みや困難にぶち当たってシンドイから、願いが叶ってラクになるならと入信したのに、「その代償」とばかりに別のシンドイことをやらされる。

Sの教えって要は「生命力を満々と漲らせれば、どんな困難も悠々と乗り越えられる」というものだったけど、その生命力を満々と漲らせるためには、シンドイこと(時に人と摩擦を起こすようなことも)をやらなければいけないわけで、結局シンドイのは変わらなかった。

 

そうじゃなくて、そもそもラクに生きたいのよ。

人が求めるのは単純にそういうことでは?

 

 

この世は陰と陽の世界で、楽しいことばかりじゃないのはわかる。

苦あれば楽ありで、それは昼と夜があって男女がいるのと一緒で避けられない。

それをシンドイことなしで超えられる方法はないものか?と探しているうちに、実は悩みの根源というのは、起こる出来事ではなくて、それに逆らって何とかしようと抵抗する、エゴと呼ばれる頭の声がキャンキャン騒ぐことにあると知った。

 

最初は、え?困難ってふつうは「何とかしよう」と頑張るものでは?と意味がわからなかった。

何せ「何とかして乗り越え、勝ち取った人が尊い」みたいな話を、それこそ浴びるほど聞いてきたのでね。

でもこれこそが、まーシンドイのよね。

一つ終わればまた次。

それが終わればまた次のエンドレス。

ラクじゃないのよ。

 

さらによくよく話を聞いたら、困難というものそもそもからのブロックを外した方がいいことがわかった。

私たちは小さな頃から「これはいいもの、これは悪しきもの、これが正しいもの、こうなったら幸せ、これが常識、これは許せない、これはあり得ない」という概念が星の数ほど刷り込まれていており、価値観というのか強固なモノサシが当てられている。

当たり前すぎて気づかないままに。

だから自分の正義に合わないことがガマンならず、「何とかしよう」になるわけで、抵抗せず受け入れること自体が難しい。

 

例えばだけど、不登校の子供がいたとして「学校は絶対行くもの」という強固なモノサシがある親は半狂乱になるかもしれないけど、

「学校?行かないなら行かないで別の道があるんじゃない?それが絶対ってわけじゃないし…」という人は、そこまで深刻にならなかったり、むしろいいように取る人もいる。

 

「受け入れる」とか「手放す」って、自分の中に頑なな正義のようなものがある人、それが強い人ほど難しいんですよ。

夫みたいな不良とか、娘みたいなふわふわした人は、これが意外にあっさりできて面白い笑い泣き

 

 

 

「受け入れる」って、言われたことは何でも断らないという意味じゃなくて、自分ではどうしようもないことに抵抗しないということ。

そもそも起きることは全部決まっていて、自分ではどうしようもない。

結末まで完成された漫画のコマのように、一切のせりふも動きも決まっているんだから、足掻いて抵抗しても無駄に疲れるだけだ。

 

大丈夫、起こることはシナリオに必要な抑揚で、結末はIt's Alrightだから。

 

 

というわけで、出来事をいちいち問題にしてはギャン泣きするエゴという存在が、人生を重く不自由にして疲れさせていることを改めて。

一般に「あの人はエゴイストだ」みたいな、それをその人自身にする言い方があるけど、エゴって自分とは別モノですよ?

 

※これと距離を取ること。

 

無駄に疲れるのが嫌いで、ラクに生きる方法と聞かれれば、こう書くかな。

 

早朝に目が覚めたら、外は激しい雨風だった。

部屋の中でその暴風雨の音を聞きながら、この感じが今の自分としっくりくると思った。

 

雨風のように、起こっていることに私は何のコントロールもできない。

しようとも思わない。

しなくていい。

ああ雨風なんだ、と応もなく受け入れるだけで。

 

私の身近で起こることも、それに対する私の言動も、瞬間現れる自分の感情すら、一切がこの雨風のようなもので「勝手に起こる」ことであり、私が力むことではない。

この「私は何もしなくていい」という感覚の、何と軽いことか。

 

人って要は「自分がどうにかしなきゃ」「私の決断一つで、この先が決まる」「自分の人生は自分で切り開かくべき」という圧でいっぱいいっぱいになって、それがシンドイのだ。

なくなると、この軽い感じがわかりますよ。

 

最近、就活をした時もそうで、「私がそれをした」んじゃなくて「それが起こった」という、どこか他人事のように感じていた。

もちろん落ちたり採用されたりという結果も「私のせい」でも「私の力」でもなくて、ただそういう展開が起きたという感じ。

嬉しくても辛くても汗水たらして頑張っても、その全部から「私が」が抜けて、「勝手に起きた」という体感になるラクチンさ。

まさに、椅子に座って映画を観ている感じ。

窓辺にもたれて雨風を眺めている感じ。

 

こうなると、呼吸とか瞑想とか意識しなくても「勝手に」頭の中も静かになる。

「私がした(過去)」も「私がやらなきゃ(未来)」も思いつかなくなるので、過去と未来が好きな頭の声も黙るしかない。

私のふりしてノリノリに騒ぎ立てても、一体化して乗ってくれないので元気がなくなる。

 

しかもこの「勝手に起きること」が、チンケな自我と違って、太陽を燃やして雲を集めて雨を降らせたりしている神の采配とうもいうべきIt's Alrightなんだから、安心して任せきって大丈夫。

 

It's Alright  It's Alright  It's Alright  It's Alright……♫ 

ありの~ままの~姿見せるのよ~♫という歌が流行ったけど、私が今いちばん興味があるのが、この「ありのまま」

「ありのままの姿」とは何ぞや?

 

それは少なくとも、イヤミを言われた、喧嘩を売られた、モヤッとした、優しくされた…ではないらしい。

例えば上記のようなことなら、「誰々さんが何々を言った」がありのままになる。

誰かが何かを言ったとして、それを受け取る時、私たちはたいていそこに自分の主観や価値観が入ってしまう。

もー当たり前に、当然に、疑いもなく。

そしてそれを、当たり前に、当然に、疑いもなく真実と言う。

 

「ありのまま」って爆裂に流行ったし、多くの人が「ありのままが好き」って言う。

本当に「ありのままを見る」って、一朝一夕ではいかない難しいことなのにね。

 

 

 

 

 

4月上旬に転職して、夫の扶養から外れた。

かなり頑張って仕事を覚えてホッとしたついでに、連休中には新しい仕事用のバッグを買ってウキウキしている。

お茶とコーヒーの2本の水筒とお弁当と着替えも入れるので、大き目で軽くて、デザインはこういうやつでと選びながら、やっぱり私って仕事が好きなんだなあと思う。

 

出産10日前まで満員電車に乗ってフルタイムで働いていたのが、子育てやらパートをする主婦になって幾年月。

しかし子が成人したら、またバリバリ働きたくなった。

キャリアも資格も才能も何もなくても、そう思うなら適材適所で何かしらありますよ。

少なくとも家で暇な時間があると(私の場合は)生産性がないというか、ロクなことはしないというか、もっと働いた方がいいと思った。

予想しなかったことだけど新たに2人も友達もできて、思い立ったら即行動に移して本当によかったと思う。

 

驚いたのはその友達の1人が、私が18歳で単身上京して、結婚するまで7年間住んでいた町の出身だったこと。

チェーン店でない、町の中華屋さんという感じのお店によく行っていたんだけど、そこの娘さんだった。

ええええ?!そんなことってあるんだ?

 

世界はリンクしている。

行動を起こすとそれがわかると聞いたけどホントだ…

というわけで、繋がり合う世界が少しでも広がって嬉しい。

精神世界というのかスピチュアルというのか、言い方はどうでもいいけど、私が実感した限り、これは実生活に大変役に立った。

 

まず起こることは決まっていると思ったら、後悔というものがゼロになった。

それしか起こらないわけだから、あの時あーすればよかった!失敗した!と思う必要がない。

そして日常で起こることに、いいとか悪いとか判断しなくなった。

もちろん100%ではないけど、前に比べたら、起こることにいいも悪いも正義も幸せも不幸も感じなくなった。

例えばメディアがウンコタレな報道をしたとして、それは「わかっててやっている」という事象なだけで、そこに「腹立つわー」「悪は責めろ」が乗ってこない。

これは頭で「ジャッジしないぞ」とか「するものではない」とか「そういう理屈だ」思っているんじゃなくて、気づいたら勝手にそうなった。

 

なぜかは自分でもわからない。

毎日、「人ってありのままを見ているようでフィルターがかかってる」とか「生まれた時から、親や世間や学校やいろんな影響を受けて、こうあるべき、これが正しいみたいな感覚が染みついている」という話を聞いて、ふうん…と地味に、ものすごく地味に、そんな話をコツコツ繰り返し、自分に問うているうちに、徐々にそうなっていったというしかない。

 

で、だから何?というと、結果、生きるのがめちゃくちゃラクになったんですよ。

どっかの教えみたいに、力がみなぎって戦闘態勢になるんじゃなくて、その逆。

ただただ体感が、穏やかに平和に静かになった。

お金ゼロ、労力ゼロ、人間関係ゼロ、瞑想もヨガも呼吸法も、難しい教義の勉強もゼロで。

 

もちろん「悟った」なんておこがましいことは全く思わないけど、ただラクになったという実体験の話。

17年も一人仕事をしたのち再び、多少なりとも「人間関係」というものを体験して、おー!!世の中にはこんなものがあったんだったと、懐かしい刺激を感じている。

多くの人が悩むそれも、長年、草木としか会話していなかった私には楽しみでこそあれ、全くもって深刻なものではなくなったのが人生の妙なり。

 

ただコツがあるとすれば、極端に言えばだけど、相手のことはどうでもいいというか、どんなキャラも言動も知ったことじゃない、知らんがな、くらいで見ること。

それより自分が、何のどんな言動に笑うのか、波立つのか、苛立つのか、惑うのか、そこだけ観察する。

「眺る」としたら人じゃなく徹底して自分のソコ。自分が湧きだすソコ。フォーカスはソコ。

 

そしたら何故だか不思議と自分の波立ちなんて、あっさり消えていく。

そして、周りの人が勝手にいい人ばかりになる。

いやホントなんですよ?

 

週末。

余計なことを考えず、黙々と淡々と働いた一週間は楽しかった。

久しぶりの一杯が喉に染みてサイコーだ爆  笑