誕生日と元旦の恒例で、最近考えていることを書いてみます。

 

 何度か書いているので耳タコ(目タコ?)の人もいるかと思いますが、僕は20代後半にうつ症状~失読症で大学院をドロップアウトし、その前後に何年か療養していたので、初めて定職についたのはちょうど6年前の今日、32歳の誕生日のことです。

 それ以降、僕にとって誕生日は「働くこと」について思いを巡らせる日でもあります。

 

 療養していた時期は、「ここから回復できたとして、どうやってキャリアをつくっていけばいいのか」ととても不安でした。

 数年後に復帰できたとしても、他の人よりスタートラインが10年近く遅れるし、こんな体調では所謂「九時五時」の仕事には耐えられない。ということは、「サラリーマン」的なキャリアでは勝負できない。

 さらに、見習い的な立場が許されるのはせいぜい30代までであって、40代になるともう何らかの専門性(もしくは社内政治力)を求められる。だとしたら、ぎりぎり「甲斐荘くん」でいられる30代のうちに労働市場において「何者か」になっていないと、そこからはもう、うだつがあがらない人生を送ることになってしまう。

 こういったことが、当時の僕にとって最大の不安だったわけです。

 

 ですから、療養中からぼちぼちライター的な仕事を始めたのは、もちろん読書は人並み程度に好きですが、加えて上記の条件をクリアできる可能性がある仕事、という計算も少しありました。社会経験のない若造がひねり出したにしては、完全ではないにせよそれなりに当を得た方向性だったんじゃないかしら(とは言え、ライターは決して労力に対して割のいい仕事でもないので、そこはやはり世間知らずでした)。

 

 前職に拾ってもらってからこのかた、初めは会社員、転職後は会社員 兼 (ライターや舞台を中心とした)フリーランスとして、かつて「30代のうちにキャリアをつくらなきゃ」と焦っていたよりも遥かに遠くまで進むことができたと思います。幅の広さという意味では同世代でも稀なくらいかもしれません。

 こればかりは、「縁に恵まれた」としか言えません。まあ僕も褒められたがりなので(笑)仕事が終わった直後は自慢げにもなりますが、でも第一には、その時々で僕の可能性を見出して、仕事を任せてくれた人たちのおかげです。そういう方をはじめ、私に関わってくれた方々のことをいつも有難く思っています(この投稿を見ている人は全員そうですね)。

 

 

 さてここまでは前置きで、本題はここからです。

 要するに、ここ6年くらいの僕の人生のプロジェクトは「将来食いっぱぐれないようになる」だったわけですが、多分それは達成できた。「この内容だったら甲斐荘さんに頼みたい」みたいに思い浮かべてもらえる分野を作ることが、ある程度はできたはずです。

 そのせいか最近は「あんまり「仕事、仕事!」ってがっつくのもなあ……」みたいな気分になることが多いです。

 いや、何かの分野に秀でた人とお話ししたり文章にまとめたりすること自体は楽しいので(「好きこそものの上手なれ」とも申します)、べつに今もらえている仕事自体に飽きたわけじゃないんですが、「キャリア構築に繋がる行動」みたいな方向性には確実に飽きが来たんですよね。

 じゃあ何をやりたいのか、と自分に問いかけると、(ウマが合う人と出逢って結婚したいとは思いますけれど、それ以外は)特に見えない。多分何かしらあるはずなんですけどね。

 最近とっちらかって興味があることは「「効率的に儲かる事業」を中心とした経済の生態系」みたいな話や、「表象と身体性、それを統御する知性」みたいな話、高校レベルまでの主要教科は共通テスト8割レベルまで持っていきたいし、小説を読むのが得意でないのを克服したい、みたいなこと。「日本で舞台芸術は稼業になりうるか」「働き方の多様性を支える社会実装とはどんなものか」みたいな課題も時折頭をよぎります。

 

 こうやって書き出してみて思いついたんですが、要するに、いろんなことに興味があって絞れないから「次の方向性はこれです」と宣言できないってことなのかも。

 

 人に内在する知性は、本人が気づいているよりも遠くへと連れて行こうとするものだと信じます(その意味で僕の思想は近代的ではなく、若干オカルトじみているかもしれません)。そして今の僕の興味のとっちらかりかたが、後から振り返ると未来の僕へと結びついている必然的な種であるならいいなと願っています。

 そんなわけで、これからもどうぞよろしくお付き合いください。

 

オリンピックの前にこの話が炎上した時、オザケンファンのコミュニティから、クイックジャパンの該当記事のスキャンが回ってきました。

それを読んで僕はびっくりしてしまった。炎上した話、そしてその元になったまとめブログ、2chコピペとは、だいぶ話が違ったから。

 

炎上の元になった話では、

・障害者をいじめていた

・大便を喰わせてバックドロップしたり、ぐるぐる巻きにして面前でオナニーさせたりした

 

というものです。これは胸くそ悪い話で、「記事を実際に読んだその時まで」、僕も小山田を「ちょっとなあ」と思っていた。

 

ところが回ってきたクイックジャパンでは、

 

・小3の頃障害者が転校してきて、物珍しさから、ダンボールに閉じ込めるようないじめをしたが、後に(周りと話が合わない分、ひとつのことに集中するのがかっこよく見えて)その子と仲良くなった。

・高校でも、いやがる相手にプロレスごっこをしたりしたが、それを見た先輩が割り込んできて、ぐるぐる巻きにしてオナニーさせた。それを「(いくらなんでもまずいだろ)」と思いながら見ているしかなかった(自嘲)。

 

と語っているんです。

いや、全然話違うじゃん。

小3が転校してきた障害者の子をいじめちゃうのは、褒められたもんじゃないけど、小学生ってその程度にはバカで残酷でしょう。自我がはっきりしてきてからその子と仲良くなったというのも、よくある話です。

高校でもいじめっ子だったのは、これは自我ができてからの話だから褒められたもんじゃないけれど、ネットミームになった胸くそ悪い話は「というのを傍観するしかなかったヘタレな俺」という文脈です。

 

つまり、インタビューでは

・「俺はいじめっ子だった」

・「校内では目を覆うようないじめもあった。止められない俺はヘタレだ(苦笑)」

 

だったものが、まとめブログや2chのコピペでは

 

・「俺はいじめっ子で、目を覆うような酷いこともやったんだぜ(笑)」

 

へと変わっていたんです。これは、明確な悪意をもった切り取りでしょう。

 

だから、リンク先の文春のインタビューで本人が語っていることは、新たな事実でも言い訳でもなく、普通の読解力で元のテキストを読めば常識的に受け取られる内容です。

(先に刊行されたロッキングオン誌のインタビューについては、本人のインタビューの通り、誰がいじめをやったかをあやふやな書き方をされていて、本人の原稿確認もさせてもらえず、論評の価値はありません)

 

こんなことで、彼はあれだけのバッシングに遭った。

誰かが悪意をもって切り取ったブログやコピペが拡散して、それをネット上のインフルエンサーや、あろうことかクオリティペーパーまでもが拡散して、誰もが騙されて、一人の人間を人身御供にしたんです。

僕自身は政府がオリンピックを強行したことをいまでも許せない。実際そのせいで多くの人が出歩き感染が拡大し、オリンピック期間中に多くの方が医療を受けられずに亡くなった。この10年間言葉を破壊し続けていた彼らに、元より政権を担う資格はない。

でも、オリンピックにケチをつけるために、よく確かめもせずデマを拡散して悦に入っている、そして訂正も謝罪も補償もせずに次の話題を追いかけるインフルエンサーやジャーナリストは、金輪際公共空間から去るべきです。資料を確かめもせず「確かめた」と言い張るジャーナリストには、他にもっと向いた仕事があるでしょう。

 

繰り返すけれど、記事の現物を読んでも、たしかに小山田は高校までいじめっ子気質で、それは褒められたもんじゃない。それはある程度の批判の対象になるのは、分かる。

でも、あれだけの炎上とキャンセルをされるようなことですか?世の中0か100かじゃないでしょう。

僕自身が「小山田が実際やった」以上、「小山田が傍観した」未満のいじめを小学生の頃に受けたから、身を以て知ってるけど、日本の子どもって(もしかしたら大人も)多かれ少なかれ彼程度のものですよ。

(ちなみに、僕が受けたいじめの中で最も酷いものは、小6で体育の着替えの時間に、抑えつけられパンツを奪われて、局部を他の生徒の前で顕わにされたことです)

ちょっと気に障ったりする同級生はハブったり苛めたりする。学校で大のトイレを使っただけでいじめの対象になる。目の前で凄惨ないじめがあっても、自分が標的になりたくないから口を出せない。

小山田圭吾がバッシングの対象になるなら、まあ、日本人の30%は同じバッシングの対象になるでしょう。それほど、このいじわるな社会ではありふれた人格です。

(小山田が傍観せざるを得なかったいじめをやった先輩は、0.01%レベルの異常者だと思いますけど)

 

繰り返すと、僕も今回の炎上まで、ネットミームの内容を信じてしまっていました。だから、今回の炎上に載せられて小山田に対して吹き上がった人を責められません。

でも、「なんにせよいじめたんだから、バッシングは当然」みたいに、自分の軽率から目を背けるために0か100かの議論に陥るのではなく、「ああ、自分はデマに煽られて吹き上がるほど軽率なのだな」とまずはバツの悪さを受けいれてほしい(僕もそうですから)。そしてデマ元のブログやコピペを書いた人たちの悪意や、今回それを拡散したり報じたりした人たちの、したり顔の裏に隠れた無責任を、感じてもらいたい。

できれば僕と一緒に、この社会が(もしかしたら他の社会も)「善意を装った悪意」にあまりに脆弱であることに、思いを馳せてもらいたいんです。

 

最後に。

多分この投稿を最後まで読んでも考えが変わらない、またはさっと目に入って気分が悪くなってちゃんと読まなかった人もいるでしょう。僕への評価を落とした人もいるかもしれない。

それでもこの投稿をせずにいられなかったのは、僕が「小沢健二のファン」だからです。

小沢健二に魂を救われた僕には、彼を表舞台に連れてきてくれた小山田圭吾に、義理がある。

小山田が実際にやったことで正しく因果応報が起こったなら放っておけばいいけれど、ねじ曲げられた話でバッシングが起こったのなら、誤解を解く義理がある。

ここで日和ったら、心の中の小沢健二に二度と顔向けできないし、彼の歌を口ずさむこともできなくなるのです。

Twitterを見ているとたまに、大学教員らしき人が「大学は就職予備校ではない」とか「学問はそれ自体に価値がある」みたいな投稿をしてるのがリツイートされてきたりする。
 それらは多分、政治家とか文科省とか経済界とかが、大学に対してやな感じの要求や締めつけをしてくることへの批判としての投稿なのだろうから(前後の文脈をちゃんと読んでいるわけではないから定かではないけれど)、その趣旨自体には賛同する。
 けれども、人文系の大学の教員が「大学は就職予備校ではない」とか「学問はそれ自体に価値がある」みたいな雑な物言いをすることには、正直「ちょっとなあ」と思うし、「それが本当かどうか、適切なやり方で議論するのがあなたの職分なのではないか」と、残念に思う。
 どう考えても、大学はある面では就職予備校なのだし、学問の価値はアプリオリ(先験的)ではない。そこを否定するのは無理筋だ。
「それでも、」大学で学び学問に触れることは、あなたの人生にとって、ひいてはこの社会にとって、そしてこの世界の善にとって大切なのだ……と訴えるのが誠実なあり方なのではないかと、大学を卒業した後も学問にちょっと関心を持ちながら、それなりに必死に社会人生活を送る僕は思う。
 学問それ自体は、アプリオリ(先験的)に価値のあるもの、ではない。かみ砕くと、どんな社会においても尊重されるべきもの、ではない。
 この手の「どんな状況でも○○だ、というのは間違いだ」という論証は簡単で、要はなにか例外を挙げればいい。例えば、石器時代には、どう考えても学問をする人よりもマンモスを狩れる人のほうが重用されるだろう。Q.E.D.。
 このように、(社会的な)学問の価値が時代に依存するのだとしたら、次の問いは「なぜ、現代に於いて学問には(社会的な)価値があるのか」になるはずであり、それに答える義務は、学者やそれに関わる人の側にこそ課せられているはずだ。
 もちろん、「価値」と言えばすぐに金銭的価値だと思い込む単細胞だらけの世論や、明らかに学問を憎んでいる反知性主義者の巣窟と化している政権与党執行部を前に、言質を取られたくない気持ちや「何を言っても無駄だ」と諦めたくなる気持ちは十分に理解できる。が、だからと言って、それが誠実な人や宇宙の善に背を向ける言い訳にはならない。
 さて、現代社会に於ける学問の価値は、心ある人同士で議論し合って到達すればいいが、その議論のひとつの出発点となる「一人の人間にとっての学問の価値」とはなんだろうか。例えば私を例に取るなら、「学問を仕事にしているわけではない私にとって、学問には価値があるのか」という問いを設定し、私なりにそれに答えてみよう。これはべつに大した問いでもない。「パン作りを仕事にしているわけではない私にとって、パン屋には価値があるのか」と同じ構造の問いに過ぎない。
 だから、パン屋の例と同じように考えれば答えるのはそれほど難しくない。私がこれまでの人生の中で触れてきた多くの書籍や芸術、学校で教わってきた内容は、多かれ少なかれ何かしらの学問の所産である。よって、私自身は学知を生み出す人間ではないが、この世界に学問という営みがなければ、今程度の半端な知性にも至らず、せいぜいTwitterで支持を集めるのによくいるタイプの地頭が良いだけの屁理屈野郎だっただろうし、これから先、より知的でダンディなオトナへと成長していくこともないだろう。よって私は、学知を生み出す活動すなわち学問の価値を認める。
 大体この辺りを出発点にして、それでは「現在の社会にとって、学問の価値とはなにか」を心ある人同士で議論するならば(心ある人募集中)、議論をかっ飛ばして結論を言えば「バカが増えると社会が衰退するから」「ある程度みんな賢いほうが社会が円滑に回るから」「みんなが話し合うための土台が必要だから」といった必要に対する、不可欠な処方箋……というあたりになるだろう。
 だから学問の場である大学が必要とされるのだが、一方で、大学には就職予備校の側面がある。
 これを認めるのを嫌う人がたまに見受けられるわけだが、僕にはこれが全然理解できない。「大学は学問の場である」ことと「大学には就職予備校の面がある」ことは独立したふたつの側面であり、けっして結びついて「学問は就職のためのものである」ことを指すわけでない。人は美食のために食事をし、生存のために食事をするが、美食は生存の道具ではない。それと同じことだ。これくらいの曖昧さは許容するのが、いい大人ではないか。
 そもそも仕事こそは大人の条件であり(必ずしも「賃労働」であるべきとは思わない。例えば家事だって仕事だろう)、学問だけ修めて働かない人間は、大抵、友人の想い人に抜け駆けして自分だけ結ばれて友人を自殺せしめ、十何年か後に自分自身もなんとなく海に身を投げるものと、こう相場が決まっている。まったくもってろくなもんじゃない。
 さて、少なくともこれまでの日本では、大学で学んだことと職場で求められる職能とがあまりリンクしていない。(もちろん、たとえば「化学メーカーの研究職や生産管理職には、化学を専攻した修士・博士が優先して採用される」みたいなことは日本でもあるが、「営業学士」やら「総務修士」なんて学位は聞いたことがない)
 大学を卒業した学生の一定割合は就職後、「総合職」「一般職」なる無垢な仕事人、右も左も分からないトーシロー、ポケモンで言うところのイーブイ、ガンダムで言うところのF90やストライクガンダムみたいな存在と見做され、その職業に於ける専門性を一から叩き込まれる。おかげであまり仕事に役立たなそうな学問を学んだ学生でもなにかしらの業界に就職できる(但し景気が良ければ)と、こういうわけだ。
 そうならば、悪評高い「新卒一括採用」やら「ポテンシャル採用」やらは、日本の大学、ひいては学問のダイバーシティを保っている守護神でもあることになる。
 逆に、新卒に対しても企業が本気で「職能採用」みたいなことをやりだしたら何が起こるか、想像するだに恐ろしい。大学には企業の「即戦力」需要に応えるカタカナ学部が乱立し、大卒とは名ばかりの専門バカが量産され、書店はビジネス本で埋め尽くされ、テレビやYouTubeには駄菓子のようなコンテンツが溢れ、エリートは無教養になり、この国は船頭を失う。
 そう、つまるところ今と大して変わらない。……のではなくて、いまの日本の悪いところがさらに加速度的に悪くなるだろう。
「お前はさっき「大学は就職予備校でもある」と言ったじゃないか」との批判もあるだろうが、だからこそ、表向きは「就職予備校でござい」と今現在の企業社会に適合する人材をせっせと供給しつつ、その実一皮めくれば、理性と教養と学知への敬意を備えた確固たる個人を育てあげ、社会に送り出すことを通じて、この社会を「より良く」していく礎となる。
 ……そのような蛇の狡猾さと鷲の勇敢さを友とすることこそを求めたいのです、例えば、我が親愛なる母校には。