琵琶湖の生態系は多様で、1000種類を超える動・植物が生息している。長い期間自立したためその中には琵琶湖にのみ生息する固有種 も数多く確認されている。その規模も大きく、独特の漁業が発達した。

その一方で、オオクチバスブルーギル をはじめとする外来種 の侵入や1992年の琵琶湖水位操作規則の改訂、内湖[5] の消失、水田とのネットワークの分断等によって固有の生物相が大きく攪乱を受け、漁獲高が激減した種も多い。それらへの対抗策も講じられ、外来種駆除や生態系に配慮した水位操作、内湖の再生など様々な取り組みが行われているが、まだ十分な効果をあげられていない。また、琵琶湖産の稚アユ は日本各地へ放流され、そのために琵琶湖固有種だけでなく稚アユと共に混獲され放流されたオイカワ などの種が各地で繁殖するという、移入種 を生み出す元ともなっている。

琵琶湖が形成された時期は、約400万年~600万年前で、現在の三重県 伊賀市 平田に地殻 変動によってできた構造湖 であった(大山田湖)。これが次第に北へ移動し、比良山系 によって止められる形で現在の琵琶湖の位置に至ったという。大山田湖以前、現在の琵琶湖の位置には山(古琵琶湖山脈)があり、鈴鹿山脈 は未だ隆起せず、今日の琵琶湖東南部の河川は伊勢湾 へ流れていた。それを裏付けるように、鈴鹿山脈 の主要な地質は礫岩 である。また、琵琶湖に流入する最大の川で、東南に位置する野洲川 は、当時西方ではなく、東方へ流れていたという。

世界の湖の中でも、バイカル湖タンガニーカ湖 に次いで3番目に古い古代湖 であると目されている。

縄文時代弥生時代 から交通 路としても利用され、丸木舟 なども出土している。古代 には、都から近い淡水の海として近淡海(ちかつあわうみ、単に淡海とも。古事記 では「淡海の湖」(あふみのうみ)と記載)と呼ばれた。近淡海に対し、都から遠い淡水の海として浜名湖遠淡海(とおつあわうみ)と呼ばれ、それぞれが「近江国 (おうみのくに、現在の滋賀県)」と遠江国 (とおとうみのくに、現在の静岡県 西部)の語源になった。別名の鳰海(におのうみ)は、近江国の歌枕 である。

天智天皇 により、一時は琵琶湖西岸に大津宮 が置かれた。測量技術が発達し湖の形が琵琶 に似ていることが判った江戸時代 中期以降、琵琶湖という名称が定着した。

琵琶湖は、若狭湾 沿岸からの年貢の輸送路としても利用されており、湖上で賊に襲撃された記録なども残されている。湖西には、大津から若狭国 へ向かう西近江路若狭街道京都 から琵琶湖などを経て今庄 から北陸道 につながる[3] 北国街道 などの各種交通路が整備された。湖上交通による荷物の輸送も行われており、大津や堅田 などは港湾都市として発達した。

安土桃山時代 には、豊臣秀吉 は大津の船持に大津百艘船を整備し、観音寺 の船奉行の支配下に置かれ、特権を与えられて保護された。近世 になると、大津は松原や米原 など他の港と対立し、江戸時代 には松原、米原、長浜 が「彦根 三湊」として井伊氏 の保護を受けた。

琵琶湖が淀川 となって大阪湾 に流れる位置から、京都が首都だった時代には、若狭湾 で陸揚げされた物資が琵琶湖の湖上交通で京都や大坂 に輸送されていた。湖上を介した水運は陸上交通の発達によって斜陽となったが、高度経済成長 期には琵琶湖から運河を掘削して日本海太平洋瀬戸内海 を結ぶ運河構想が持ち上がった。当初は、琵琶湖から日本海と瀬戸内海を結ぶ阪敦運河構想を北栄造 福井県知事が調整し始めたが、当時の平田佐矩四日市市長が熱心だったこともあり、福井県滋賀県岐阜県愛知県三重県名古屋市敦賀市四日市市 の間で、自民党副総裁の大野伴睦 を会長に、総工費2500億円~3500億円に及ぶ若狭湾~琵琶湖~伊勢湾 を結ぶ運河の建設期成同盟 が結成された。しかし、大野自民党副総裁、平田四日市市長の死去と、北福井県知事、畑守敦賀市長が相次いで落選するなど、推進の中心人物を失い、1970年には中部圏開発整備本部が調査の打ち切りを発表した。[

滋賀県の面積の6分の1を占め、流れ出る瀬田川宇治川淀川 と名前を変えて、大阪湾瀬戸内海 )へ至る。また、湖水を京都市 や淀川流域の上水道 として利用するため、琵琶湖疏水 が京都へ流れている。最狭部に架かる琵琶湖大橋 を挟んだ北側部分を北湖太湖)、南側部分を南湖と呼び、水質や水の流れなどが異なる。

琵琶湖を取り巻く各自治体は、大きく湖南湖東湖北湖西に分けられる。※区分については「滋賀県#地域 」を参照。

湖を取り囲む山地 からの流れが源流で、京阪神 の水瓶という機能も担っている。また、古くから水上交通路としても利用されており、明治時代に鉄道 が開通するまでは、大坂 から東国北陸 への物資輸送に利用されていた。

古代湖 であり、魚類や底生動物など50種以上の固有種 を含む生物相に富む。明治から昭和の初期までは、琵琶湖の周囲に大小40数個の内湖 が広がり、多くの生物を育んでいた。しかし琵琶湖の洪水防御のため、1943年から始まった河水統制事業により、事業が終了する1952年までに平均水位が数十cm低下ことや、これに前後して内湖の大半が干拓されたこともあって琵琶湖の自然は大きく変化し、固有の風致や生態系が大きく損なわれた。現在、滋賀県は一部の内湖を復元することを計画[1] しており、生態系の回復や水質浄化が各方面から期待されている[2]

東京湾 中等潮位 (T.P.) 基準で+84.371 m、大阪湾 平均干潮位 (O.P.) 基準で+85.614 mの高さが琵琶湖基準水位 (B.S.L.) と定められており、「琵琶湖の水位」とはB.S.L.を±0 mとした水位のことをいう。B.S.L.は、1874年 (明治7年)に鳥居川観測点において「これ以上水位が下がることはない」と判断された点として定められたものであるが、その後、瀬田川の改修によって流出量が多くなったことなどにより、水位がB.S.L.以下になることが多くなった。現在では、B.S.L.の値がおおむね満水位となるように水位の調整が行われている。

なお「急がば回れ」という は、現在の草津大津 の間を結んでいた「矢橋の渡し」を詠んだ和歌 が語源となっている。