行きつけのコーヒー屋さんへ、予約したお豆を取りに行った。
が、支払いの際、お金が足りないことに気づいた。
お財布のチャージを忘れていた。
カードに慣れると、これだからいけない。
私は「お金を取りに行ってきます」と伝え、お店を出ようとした。
ところが、オーナーは「次にいらした時でいいですよ」と言って、商品を差し出し、アイスコーヒーまで淹れてくださった。
梅雨空を忘れさせてくれるコローンという心地よい氷の音に耳を傾けながら、ふと「信用」という言葉を思い出していた。
信用とは、信じて用いること。
「この人なら、ちゃんと行ってくれる。」
心の底からそう思える時、何も心配せずに商品を渡したり、仕事を任せたりすることができる。
ちなみに銀行や企業は、この信用を天秤にかけながらお金の貸し借りをする。
貸したお金をちゃんと返してくれるだろうか、と。
その信用には、度合いがある。
例えば、100%信用できる人であれば、条件なしで商品やお金を渡すことができる。
何があっても絶対にその人は支払ってくれたり、返してくれる。
そう、信じることができるからだ。
ところが、その信用度が低くなると、どうなるだろう。
「もしかすると、支払わない(返さない)かも知れない…。」
そう思う時、両者の間にはいわゆる担保が必要となる。
つまり、「代わりのもの」だ。
万が一、その人が支払い(返し)に来なかった場合に、それを補うためにお店や銀行が預かるものだ。
私は、以前この評価を行う仕事に関わっていた。
と同時に、そのようなことが必要のない世界が実現できないかとも思っていた。
仮に、全ての人が限りなく100%に近い信用を築くことができたらどうだろう。
すると、この世に担保は不要になる。
互いに余計な心配をしたり、相手を疑ったりすることもない。
私のように困った状況にあっても、困らないでやり取りができるようになる。
それは理想論だと言う人もいるだろう。
でも、少なくとも自分はそうなることができる。
そのような家族や仲間、コミュニティを築くこともできるだろう。
そのために何をすればいいか。
それは、一つ一つの言動を大切にすることだ。
「言ったことは、ちゃんと行う」
「行った結果に、責任を持つ」
たったこれだけ。
この、子どもでもできることを、大人も純粋に積み重ねていくだけである。
そのような人が増えたら、世界はもっと自由になるのではないだろうか。
この夏は、コローンという氷の音を聞いたら、自分の言動を見直すきっかけにしようと思う。