私の母は過干渉だった。今でいう毒親だ。

そんな母から逃れる事だけを目標に勉強していた。

大学に行けばこの家を出られると思っていたから、それだけを目標に日々勉強していた。

勉強をしていれば母に怒られることもなかったし、「いつか家を出る」という夢で密かに心を燃やしていた。


9つ、6つ離れた2人の姉は、地方の大学に行って一人暮らしをしていたから、
とりあえず大学に行けば自分の人生がスタートさせられるように感じていたし、

受験勉強のモチベージョンは、ただただそれだけだった。

 

小学生の頃から、「私はできるだけ遠くに住むねん!」と友達に高々と宣言していた。

 

やがてその目標は達成され、家を出た。そして就職もした。
それでも、自分の好きなことを何かしようとしても心の中でお母さんの声が聞こえてくる。

怒った顔がよぎる。 「こんなことしたら怒られるんじゃないか」 「あんなことしたらお母さんどう思うだろう」と考えてしまって、結局自分が思う人生より、母が言う生き方を優先し続けていた。

 

それまでの人生で、自分のやりたいことは、母の望むものとはことごとく違っていた。その度に怒られていたから、私は「私が考えることより他人が言う事が正しい」と考えるようになっていた。いわゆる自己肯定感というものは皆無に近かった。

 

それもあって「自分がやりたいことは間違いなんだ」と、おかしな思考回路が出来上がっていたように思う。

その状況で苦しんでいたある時、もやもやとした気持ちに耐え切れなくなって、家で一人テーブルを蹴っ飛ばして急須を割ってしまった。割れた急須を自分で片付ける時のみじめさと言ったらない。

 

その時「もういいか。」と何かが切れた。

それで、思い切って仕事を辞めた。「やってみたかったことをやってみて、それで苦しい生活になったとしても、自分で何とかするしかないし、するだろう。」と考えた。


実家に電話すると、母は案の定激怒した。「今すぐ辞表を返してもらいに戻れ!そうしなければもう縁を切る!」と」と電話口で猛烈に怒っていた。

電話だから子どもの頃のように叩かれるという実害もないし、「まぁ、こうなるよな」と思いながらも、足が大きく震えていた感覚を今も覚えている。

 

救いだったのは、電話を替わった父が「やめてしまったんやったら仕方ない。頑張り。」と一言くれたことだった。

この出来事で、私は半ば勘当された形になり、それから数年実家には帰らなかった。 お父さん子だった私は、父に会えないのが少し寂しかったけど、一生帰れなくても仕方がない、それに意地でも帰るものかと思っていた。 もう私には実家はない、と思うことにした。
そんな時、認知症の祖母が入院したと聞いた。その頃フリーターだった私は、母と交代で病院に泊まり込み、祖母を見ることになった。 そこで母とたまに顔を合わせるようになり、そこでもやはり干渉されることがあった。 ただ、一度大きな反抗をした私は「自分が母とは別の生き物であること」を、頭でも体でも理解できるようになったし、「私はそうは思わない」と度々”反抗”した。 そうやって母と私は別々の人間になっていったと思う。 その数年後、実家の隣に住む私の姉が大きな反抗を始めていた。 やはり、母の過干渉に苦しんでいたのだ。
その姿を見て、私は過去の自分を見ているような感覚だった。姉は、自分が母とは違う人間であることを分かりながら、言うことを聞き続けてしまっていたから苦しんでいた。 姉には能力もあって、言うことを聞けてしまったから、私より長く苦しんだのかもしれない。 その時姉は「こんな状況でもなんとかまともに生きてこられたのは、強く育ったからだと思うし、そこは感謝してる」と言った。 その言葉から、姉の「母の呪縛から解放されたいと思っているけれど、母を悲しませたくてやっているんじゃない。」という葛藤を痛いほど感じたし、よくわかった。
ただ、自分が思う方法で幸せになろうとしているだけなんだよな。 母の過干渉が本人の心配性なところから来ているのは、子どものころからなんとなく分かっていた。子どもが病気になればとても心配していたし、毎朝玄関先で姿が見えなくなるまで見送ってくれるし…と、まぁこまごまとしたところで愛情みたいなものは、子ども心に感じていたからだ。
「そんなことでは親戚や近所への顔向けができない、恥ずかしい!」という発言は全くいただけなかったけど、 「良い大学に入って良い会社に就職を…」というのは、子どもが苦しむ姿を見るのが辛いから、自分も安心したいから言っていたのだろうと思う。 それはなんとなく分かる。 だから私は、母にとっての子どもが幸せになれば、母のその心配がなくなると考えた。
だから自分の思う道を進んで、幸せにやっている姿を見せて生きて行けば良いと考えた。 そうすればもう何も言われない。ただこれには「何か悩みがあっても母に相談が出来ない」という副作用はある。いまだにそれは抱えたままだ。でもそれは別の方法で解決すれば良い。
そうやって生きることにしてから、母はもう私に干渉する事は出来ないと諦めていったのだと思う。
それに、諦めがついて母も楽になったかもしれない、とも想像している。

 

姉の壮大な反抗期が終わった後、母も丸くなっていった。
そんなふうに何年か過ごしたある日、高校生の頃から歌を作って、歌い続けている私を見て 母は「あんたには歌があるから、表現する場所があるから良いね」と言った。 嬉しかった。 こうして私の長い長い反抗期は終わったように感じる。

 

母と以前子育ての話をした時、「好きなことをとことんやらせてあげ。私はもっとそうしてあげたら良かったと思うことがあるよ」と言っていた。母の精いっぱいの「ごめんなさい」にも聞こえた。

 

母もまた、今ようやく自分の人生を生きているように見える。

 

母と良い距離を保てていて、感謝もできるようなっている。

ただ、昔の私にとっては過干渉の毒親だった。もう生きていたくないと思ったこともある。

 

そこから抜け出すまでに色んなことを考えて、ようやく自分の人生を生きられるようになった気がした時に作った歌があります。

 

自分でもこの歌を聞くと「私ってなかなか頑張って生きてきたじゃないか」と思えます。

 

毒親にも色々あるから、全ての人に当てはまるとは思わないけど、多分私と同じような人もいると思う。その人と歌を通して、何かしら分かり合えたらいいよな、と静かに思っています。

そんな歌を聴いて行ってもらえたら嬉しいです。↓