yampoo 御朱印集めの旅 

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御朱印を集める旅を始めました。

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かつての中山道、木曽の宮ノ越宿に鎮座されている旗挙八幡宮にお参りしました。旧街道を見渡すことができる段丘の上、「宮ノ原」と呼ばれる地にお社はあります。

 

木曽義仲が元服した際に、この地に館を構えたとされ、また、以仁王から綸旨を受け取り、平家打倒の旗挙げをしたところだとも言われています。

社号が「八幡宮」とあるのは、源氏一門の崇敬が篤い「石清水八幡宮」を勧請したからです。

境内には御神木として大きな欅があるのですが、これは義仲の元服を祝って、もしくは義仲が旗挙げをした際に植樹されたものだと言われ、樹齢は800年を誇ります。

 

お社から少し離れた宮越駅の近くに歴史資料館として「義仲館」があります。

私の義仲像というのは、北陸に展開する平家軍を打ち破り、頼朝よりは先に入京を果たしたものの、義仲軍は京では狼藉三昧で民衆からは嫌われ、更に田舎者ということで朝廷からも疎まれ、結局は頼朝が派遣した義経軍によって滅ばされたという、あまりイメージの良いものではありません。しかし、義仲館を訪れると、やはりこれは勝者側からの一方的な見方だと思うようになりました。

 

義仲の父親である義賢は、頼朝の父親である義朝の弟にあたります。ですから義仲と頼朝は従兄弟同士ということになるのですが、河内源氏というのは本当に身内争いが激しくて、保元の乱の前哨戦とも言われる大藏合戦において、父の義賢は頼朝の兄である義平によって討たれてしまいます。つまり、義仲にとって頼朝は父の仇の弟ということになります。

大藏合戦の時にわずか2歳だった義仲は、乳母の夫であった中原兼遠によって助けられ、木曽で養育されました。義仲館ではこの中原兼遠の存在が大きく取り上げられていた感じがしました。

 

また義仲館では、木曽義仲の生涯をラップ調の音楽とともにプロジェクターで紹介されていて、なかなか面白い演出だと思ったのですが、改めて歴史を振り返ると、旗挙げしたあとの義仲は信濃、越後、上野で連戦連勝、そして以仁王の遺児である北陸宮を擁護することができると、綸旨継承のいわば大義名分を得、これをチャンスとみた義仲は自分の子である義高を頼朝に人質として出してまでして和睦し、後顧の憂いを絶って平家打倒に専念します。

そして、加賀と越中の国境で起こる倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍を打ち破ると、勢いそのままに入京するのですが、別名「朝日将軍」とも呼ばれた義仲の日の出の勢いもここで完全にストップしてしまいます。こういったところは義経の運命が壇ノ浦の戦いをピークに急速に転げ落ちるのと非常に酷似していますね。

当時の日本では養和の飢饉が起こり、食料事情が極端に悪かったそうです。そういう状況のなか、大軍を擁した京での駐屯は食料確保という点で狼藉は致し方なかったのかもしれませんし、鎌倉における大江広元のような朝廷に通じた優秀な政治ブレーンが義仲にはいなかったのも凋落の原因であると思います。

 

義仲館の前では木曽義仲と巴御前の像が仲睦まじく立っていました。

これを見ると、地元の人達による郷土愛と義仲に対して巴御前が抱いたであろう同じような敬愛の念を感じざるにはいられませんでした。