はじめに

「横浜」といえば中華街やみなとみらいなど、人気で綺麗な観光地が思い付く。



不動産住宅サイトSUUMOの住みたい町ランキング(関東)では2021年1位(2018年から4年連続!)であり、人口も全国2位と、その発展ぶりは目を見張る。
今回は神奈川県住みで横浜大好きな自分が、これまでに何度も横浜を散歩していた時にふと感じた、

「なぜ横浜はこんなにも発展することができたのだろうか?」

という疑問に対して、自分なりに調べてわかった内容についてまとめていきたいと思う。

 横浜の歴史

まずはじめに調べたのは横浜の歴史。

そこでわかったのは、「現在の横浜となる場所(中区や西区付近)」は江戸時代の頃は「横浜村」と呼ばれ、新田開発により米を生産していた片田舎の1つで、ほとんど誰も知らない場所であったということだった。

(今の横浜とは全く結び付かないイメージで正直しっくりこない。)


(サイト「横浜沿革史」より)

そんな横浜に転機をもたらした最大の要因は、やはり「横浜開港(日米修好通商条約)」だと思う。

横浜は開港により外国との接点となることで国内でも早くから外国の文化を取り入れ発展することができたのだ。

なので今回は「横浜開港」についてスポットを当てて、疑問点とその答えをまとめてみることにした。


横浜開港(日米修好通商条約)のあらましとしては、以下のようなものである。

当時鎖国政策を取っていた日本に対して、アメリカ代表のハリスが貿易のためにいくつかの場所を開港するように要求する。

このころ中国はイギリスとフランスに戦争で敗れ不平等条約を結ばされており、「アメリカと条約を結んでおかないと、イギリスやフランスが戦争を仕掛けてくるぞ」という言葉に焦った江戸幕府は、言われるがままに神奈川(横浜)、函館、長崎、兵庫(神戸)、新潟を開港し、不平等条約を結ぶに至ってしまった…

というような日本史を習った人がいると思う。


しかしそこで思うのは、


「なぜ島国でどこにでも港があるような日本において、開港場所の1つに神奈川が指定されたのか?」


「なぜ神奈川の中でも『横浜』が開港場所として選ばれたのか?他じゃダメなのか?」


という疑問だった。

これらの疑問の答えを調べていた時にわかったのは、上に書いたように日米修好通商条約という不平等条約を結ぶことになったものの、江戸幕府は一方的にやられていたわけではなく、実際には水面下でアメリカとの交渉の攻防があったのだということだった。

また、横浜はたまたま何となく選ばれたのではなく、開港場所として選ばれるべくして選ばれた場所であったということだった。


 横浜港開港の理由

「なぜ島国でどこにでも港があるような日本において、開港場所の1つに神奈川が指定されたのか?」


この疑問の答えとしては、

①水深が深かったため

②付近に大きな河川が存在しないため

といったことがある。


ペリーの黒船しかり、外国船は巨大であるため、水深がないと安全に停泊することなどが難しくなる。

また大きな河川が港近くにあると、上流から運ばれてきた土砂によりその場所は浅瀬になりやすくなってしまう。また、その時点では水深が深くても、将来的にはやはり土砂により浅瀬になってしまうことも考えられる。

そのため、上記の2つの要素を満たす神奈川が開港場所の1つとして求められたのだ。

(ちなみに、条約で開港した他の港も大体はこの条件を満たしている。)


では、

「なぜ神奈川の中でも『横浜』が開港場所として選ばれたのか?他じゃダメなのか?」

という疑問についてだが、1番の答えとしては、


江戸に直結する東海道の神奈川宿付近よりも、東海道から外れている横浜にしたかった


という江戸幕府の考えがあった。


アメリカ側としては当初は東海道の神奈川宿付近の神奈川湊(かながわみなと)の開港を望んでいた。

日本の中心である江戸に近く、交通の要衝である東海道において江戸から3番目の宿場町である神奈川の近くで貿易を行いたいと思うのは当然である。


神奈川宿と神奈川湊(横浜市HPより)

しかし東海道へのアクセスが簡単であることは、政治の中心である江戸に簡単に向かうことのできるということも意味する。

外国人が攻撃をしてくる可能性は低いが、万が一を考えると防御をする側としては危険に感じる。

そこで「アメリカが開港を要求してきた神奈川湊には近いが、東海道にはアクセスしにくい」という条件を満たした港を選ぶ必要があった。

また、当時は尊王攘夷思想が高まりつつあったため、外国人と日本人との接触をできる限り避けることで事件を未然に防ぎ、国際問題が生じることを避けようとした意図があった。

(この交渉地点において政治と地理学的要素の入り交じる地政学上の攻防が繰り広げられていると感じる。)


こうして神奈川湊の代わりに選ばれたのが次のような特徴を持つ横浜港であった。

①江戸には近いが、東海道へのアクセスが悪く不便な場所

②元々は田舎の村であり、土地代が安い

③神奈川湊は浅瀬だが、横浜港は水深が深い


開港後の横浜付近地図(筆者が作成)
赤線:大体の当時の海岸線
紫線:大体の東海道のルート

今回いくつかの資料を参考に、開港後の横浜の地図を作成してみたのが上の画像だ。
地図を見ると、横浜港地域は周りが山で囲まれており、東海道へ出るためには野毛山を越えなければならない。つまり長崎の出島のように、外国人を1ヶ所に留めることができるのだ。
しかし神奈川宿には近いため、江戸幕府は「横浜も神奈川の一部だ」と主張し開港準備をどんどん進めたらしい。当然アメリカはアクセスの悪い田舎の村など拒否するが、待ちきれなかった外国商人たちが土地代の安さを理由に先行して横浜港にどんどん拠点を築きはじめたため、ついにはアメリカ側もなし崩し的に横浜港を開港場所として認めることになったのであった。
その後はアメリカ以外の国からも開港を要求され、横浜は外国との最前線となり、現在のような発展を遂げるための歩みを踏み出していくことになる。
(ちなみに当時の日本人と西洋人の間で通訳を行っていたのが中国人で、彼らが住み着いたのが現在の中華街の辺りであった。)

今回の話を知ると、横浜は選ばれるべくして選ばれた場所であり、江戸幕府もアメリカに言われるがまま素直に条約を結んだわけではないことがわかり、同時に当時の人々の様々な考えや野望が重なりあって、横浜は今のような形になっているのだと実感した。

 おわりに

横浜が現在のように発展することができた理由は様々なものがあるでしょうが、まず間違いなく誰にも賛成して貰える理由の1つは、「横浜開港」だろうと思ったので、今回は横浜開港について感じた疑問を元に調べた内容についてまとめてみました。

今後ももしかしたら横浜の話について書いてみるかもしれないので、もしよければ覗いてみてください!


参考図書:「地図と地形で楽しむ横浜歴史散歩」洋泉社