「悟り」とは何でしょうか?一口では言いにくのが真実なのかもしれません。
仏教ではブッダが最高の到達点として悟りを指し示し、そこへの道を教えることが教義となりました。おそらくは相当深い境地なのでしょう。
ここで私が申し上げたいのは、ブッダの悟りそのものではありません。仏教が漢字に訳されて本邦に渡ってきたのは、西暦6世紀とされています。新しい仏教という教えに接して、聖徳太子や蘇我氏がそれを学問として定着させたというのが、日本史の教科書での教えです。
しかし、本邦にそれ以前から「さとり」という言葉や概念が存在しなければ、訓読みの「悟り」は現在に伝わっていません。「悟」なら「ご」となりますし、「覚」なら「かく」になっていたことでしょう。驚くことに、日本人たちは、仏教が伝わる前から「悟り」を理解していたのです。ですから、仏教の悟りを聞いた時に「ああ、それは悟りのことですね。」となって、訓読みが生まれたのでしょう。
それでは本邦での「悟り」とは何なのでしょうか?それは「差取り」という意味だとされています。
ここでのポイントは、「差無し」ではないことです。差は存在するのです。男と女、年配者と若者、先生と生徒、上司と部下、、、現代では、差を無くすことが「正しいこと」のようにされがちですが、差は差として存在させるべきなのです。
しかし、差があるからと言って、その差を優位なものとして利用したり、上が下を押さえ込んだり、無理なことをすることはレベルが低いとされたのです。差があるからこそ、差を取って接することが重要であり、公平であり、人徳のあることであることが社会として理解されていたのです。
従って、仏教のような我を捨てて高い境地にいる様に対して、この言葉を当て嵌めたのではないでしょうか。
日本語は、見事なまでに教えになっているものが沢山存在します。その言葉を編み出した人々、そこ言葉を定着させた人々の叡智というものは、もっともっと評価されていいのだと思います。
皆さまも、是非「日本流の悟り」を心に留めて、古代の人々に思いを馳せていただければ幸いです。
雪風 拝
















