父の話 | saruの覚書

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韓国ドラマ、バラエティーだったり、LIVEだったり、宝塚歌劇団だったり。

毎週、父と私はたいてい見るテレビ番組が決まってた。その日の8時頃、
「今日はいいテレビもないし早く寝るかなぁ」
と父が言い、立ち上がろうとした。でも、なかなか立てずにいた。これはよくあることで、人工透析を始めてから足が弱くなってしまったからだ。いつもならほかっておくのだが、その日は、やっと立ち上がろうとした時に、
「気持ちが悪い」
とその場で少しもどしてしまったので、後ろから支えて父を立たせてあげた。しばらくして
「べーちゃん、ネンネするよ」
と、ベリーに声をかけて、一緒に部屋に上がって行ったので、
「おやすみ」
と声をかけた。


それから2時間後。上で凄い音がして、
「すぐに来て!」
と母の声。この日、母は熱があり先に寝ていた。慌てて上がって行くと、父の体が硬直し物凄く揺れていた。母は突然ベッドが揺れ出して、慌てて跳び起きたのだ。ただならぬ状態に、すぐに救急車を呼び、病院に運ばれた。


我が家で救急車を呼ぶのは、決まって父に何かあった時で、外で倒れたこともある。でも、いつもたいしたことなく、たいていその日に帰って来た。なので、今回も同じだろうと、母と二人、ただ名前が呼ばれるのを待った。


やっと名前を呼ばれたが、「少し頭に出血が見られるので、先生が病院に到着するまでもう少しお待ちください」
と、看護婦さん。今回ばかりはその日に帰えれそうもなく、母とどうしたものかと、途方に暮れてしまった。ほどなくして、先生が見えたからと部屋に案内され、私の目に飛び込んできたのは、頭蓋骨の真ん中に大きく白くいものが写っているレントゲン写真。その白いものが出血だと知った時、
「もう駄目だ」
と思った。


先生の口から出てくるのも、厳しいものばかり。手術をするならすぐだが、非常にリスクが高く、手術中に亡くなる可能性があり、あくまでも延命の措置しか出来ないこと。例え命が繋がっても、今までの生活には戻れず、家族に相当の覚悟がなければやっていけないこと。後は、現状の中で、出来る限りの治療をする。究極の選択とはこのことだ。現状も助かる見込がなく、イコール、亡くなるのを待つと言うこと。テレビで脳出血の人はすぐ手術をするのに、なんで!?と思ったら、透析患者の父は血が止まりにくく、血管が破裂し、一気に血が流れてしまったからだった。

母と悩みに悩んで出した答えは、現状維持。先生から、少しでも先の明るい話しが聞けたなら、迷わず手術を選んだ。でも、どちらにしてもいいことを言われず、だったら、体も傷つけず、そのまま自然に逝かせてあげたいと思ったのだ。


それから救命センターに移され、先生から明日からの説明を受けている間に、父の容態が急変し、私たちも慌てて中に入って30分後。父の呼吸が止まった。最後に聞いた父の言葉は、私も母も、
「べーちゃん」
だった。

私は一人っ子。なのに、孫はおろか、花嫁姿さえ見せてあげられず、口を開けばわがままばかり。最後まで父に、親孝行をしてあげられなかった。どんなに後悔しても、もう遅い。


今でも思う。本当に母と選んだ選択が正しかったのか。でも…。私の友達に、不思議な力を持った子がいて、彼女が言うには、『父は自分もまさかこんなに早く亡くなるとは思っておらず、もう少し生きていたかっはず。でも、苦しんだのは数分で、このまま逝かせて欲しいと思った。そして幸せだったと。ただ、ベリーがこっちに来てしまいそうだからと、とても心配してる。でも、毎日父に一緒にお参りすれば、父がベリーについて私たちも守ってくれると。』父が幸せだったと言ってくれて、本当に良かった。


今になって、父のありがたみがとてもよくわかる。私にはもう、母とベリーしか家族がいない。一人と一匹を大事にしないとな。思うんだけど、こればかりはなかなか…。