FW続き

ディエゴ・ミリート
Diego Milito - Inter Mailand (3).jpg

31歳で183cm78kg

アルゼンチン時代

1979年に彼が生を受けた時、父親はディエゴ・アルマンド・マラドーナ にあやかってディエゴ・アルマンドと名づけようとしたが、妻や親族に反対されたため、ディエゴ・アルベルトという名になった。

家族中がCAインデペンディエンテ のサポーターだったが、弟のガブリエルに対するライバル心からラシン・クラブ を応援するようになり、9歳でラシン・クラブの少年部に入団した。14歳で9軍(下部組織の一番下のカテゴリー)に入団し、1998年に4軍(1軍のすぐ下のカテゴリー)でリーグ優勝したことから1軍に昇格し、1999年12月11日にトップチームデビューを果たした。2001年のアペルトゥーラ では、35年ぶりのリーグ制覇に貢献した。

ジェノアCFC

アルゼンチンでの実績を買われ、2003-04シーズン途中にセリエBジェノアCFC に移籍すると、翌シーズンは39試合に出場し、ゴール・ランキング2位の21ゴールを上げて、クラブを10年ぶりのセリエA 昇格に導いた。しかし喜びも束の間、クラブに八百長疑惑が起こり、ジェノアCFCはセリエC1 (3部リーグ)降格を余儀なくされた。

レアル・サラゴサ

2005年夏、弟のガブリエル・ミリート が所属するスペインの中堅クラブ、レアル・サラゴサ へ移籍した。クラブはクラウディオ・ロペス と合意間際だったが、開幕直前にディエゴ・ミリート獲得に焦点を絞り、まさに移籍市場の閉まる2005年8月31日、移籍金200万ユーロで移籍が決定した。買取オプション付、2年間のレンタル移籍であった。

すでにシーズンが開幕しており、アウェーでアトレティコ・マドリード とスコアレスドローに終わっていたサラゴサに、決定力のあるフォワードが欠けている事は誰の目にも明らかだった。トップチームには、FCバルセロナカンテラ 出身で、まだ若かったセルヒオ・ガルシア と、ボルシア・ドルトムント から移籍してきたエベルトン の二人のフォワードしか在籍していなかった。この状況下で彼は、サラゴサに素晴らしい功績を残し移籍金1200万ユーロでバレンシアCF に移籍したダビド・ビジャ の代わりを務めなければならないという厳しい立場におかれることになった。

2005年9月11日の第2節、そのバレンシアCFとの試合でリーガ・エスパニョーラ にデビューした際はゴールすることができなかったが、第4節のCAオサスナ との試合で上げたゴールが、サラゴサのユニフォームを着てホームのラ・ロマレダ ・スタジアムで上げた初のゴールとなった。最初のシーズンに早くも15ゴールを記録し、ファンの心を掴んだ。

2006-07シーズン、二人のアルゼンチン代表パブロ・アイマールアンドレス・ダレッサンドロ が加入すると調子が更に上向き、スペイン人好みの攻撃サッカーを標榜するビクトル・フェルナンデス 監督のもと、通算23ゴールをマークしてクラブをUEFAカップ 出場へと導いた。

しかし2007-08シーズンは、自身は安定した結果を出しつつも、V・フェルナンデス監督とダレッサンドロとの確執や、監督の解任、ディフェンスラインの不安定さなどの悪条件が重なり、クラブは迷走を続けた。2008年4月に左足首を痛め、一時は招集メンバーから外れたが、それまで15ゴールを上げ、長くゴール・ランキング2位を保っていた。足首の怪我が完治しないまま戦線復帰するも、結局それ以降1点もマークすることができず、最終節の5月18日、5年ぶりのセグンダ・ディビシオン (2部)降格が決まった。

ジェノアCFC復帰

2008-09シーズンにはジェノアCFC へ復帰。ミリート本人も降格処分となって移籍して以来ジェノアを気にかけており、相思相愛の復帰となった。ジャン・ピエロ・ガスペリーニ 監督率いるジェノアは攻撃の中心にミリートを据え、得点を量産した。第15節、UCサンプドリア とのジェノヴァ・ダービーでは決勝点をマーク。最終的にチームは5位となり、UEFAヨーロッパリーグ 出場権を獲得した。 2008-09シーズン終了時には、ボローニャFCマルコ・ディ・ヴァイオ と並んで24得点を記録し、ズラタン・イブラヒモビッチ に次ぐ得点ランキング2位となった。

インテル  
常にFWとして安定した結果を残し高い評価を得ながらも、優勝を狙えるクラブでプレーをしないまま30歳を迎えたミリートだが、シーズン終了後ティアゴ・モッタ とともにインテル へ移籍した。 2009-10シーズンはモウリーニョ監督から絶大な信頼を受け、ほぼ全試合にスターティングメンバーとして出場。サミュエル・エトオゴラン・パンデフ と3トップを組み、インテル のエースストライカーとして活躍。また圧倒的な勝負強さを誇り、チェルシーFCACミランFCバルセロナ 等のビッグクラブ相手にゴールを決めた。コッパ・イタリア 決勝戦のASローマ 戦でも決勝ゴールを挙げたミリートは、セリエA優勝がかかった2010年5月16日のシエナ 戦でも決勝点を挙げ、「間違いなくキャリアでもっとも重要なゴールだ」と語った[3] 。このシーズンはチームトップ、リーグ2位の22得点を挙げた。

2010年シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝では、バイエルン・ミュンヘン を相手に2ゴールを挙げチームを優勝に導き、HMVを獲得した。

2002年 にアルゼンチン代表に初招集され、ウルグアイ との試合で代表デビューした。幼い頃から注目された弟に比べると兄のディエゴは苦労人であり、その後代表から遠ざかるが、2004年2006年 に再招集を受けている。2006年のドイツワールドカップ 出場メンバーには選ばれていない。翌年のコパ・アメリカ2007 には招集され、7月2日のコロンビア 戦で1ゴールを挙げた。しかしアルフィオ・バシーレ 監督の大型フォワードのファースト・チョイスはエルナン・クレスポ であり、バシーレの後任となったディエゴ・マラドーナ 監督下においても、リオネル・メッシセルヒオ・アグエロカルロス・テベスゴンサロ・イグアイン などいずれもビッグクラブで主力として活躍している選手がいるため、ポジション争いには苦戦している。

2010年の南アフリカワールドカップ では、背番号19で代表入りを果たし、グループリーグ初戦のナイジェリア 戦の後半34分に途中出場したがこれ以降出番は無く、自身初のワールドカップは15分の出場に止まった。

ディエゴとガブリエルのミリート兄弟は、レアル・サラゴサでの2シーズンを除き、子供の頃から常に別々のクラブでプレーしていた。ディエゴがラシンに所属していた当時、弟はライバルのCAインデペンディエンテ に在籍しており、2003年3月9日のアベジャネーダ・ダービー において兄弟による対戦が実現した。試合中ペナルティエリア付近で弟が兄を倒し、ユニフォームを掴まれた、と兄が弟の退場を要求、弟に出されたイエローカード を巡って兄弟が激しく言い争うシーンが見られたが、結果は1対1の引き分けに終わっている。 試合中二人がずっと罵り合いを続けたため、スタジアムの大観衆と何万人ものTV視聴者の前で「兄弟喧嘩」をしたことで、観戦に来ていた母親は怒り、スタジアムを退出した。この時彼女は兄弟のガールフレンドたちと一緒であり、穴があったら入りたいほど恥ずかしかったという。

昨シーズンは神がかってたけど今シーズンは絶不調でセンターをエトオに明け渡しもう散々なお方。招集はされるんだね


エセキエル・ラベッシ
Ezequiel Lavezzi - SSC Neapel (2).jpg

25歳で178cm75kg

10歳から17歳までをボカ・ジュニアーズ のユースで過ごす。18歳のときに3部リーグ所属のCAエストゥディアンテス へと移籍。ここで39試合17得点を記録した彼にイタリアのジェノアCFC が目をつけ獲得に至るが、本人の希望がアルゼンチンでプレーし続けることであったため、CAサン・ロレンソ へのローン移籍 が決まる。

2005年にはサン・ロレンソへの完全移籍が決まり、クラブのエースとして活躍。2007年アルゼンチン後期リーグ では初の優勝を経験した。

2007年7月5日、イタリアのSSCナポリ に移籍。母国の英雄であり、同クラブの伝説的存在であるディエゴ・マラドーナ の再来として注目されている。

2008年夏のカヴェーゼとの練習試合では背番号10を身につけて試合を行なった。ディエゴ・マラドーナの永久欠番となっていた10番を着たのはロベルト・ソサ とラベッシのみである。

アルゼンチン代表 には2007年4月18日のチリ 戦でデビュー。2008年には北京オリンピックに出場し、5試合で2得点を挙げ金メダル獲得に貢献している。

そしてナポリサポーターのイタリア人アーティスト であるアンドレア・ナポレオーネがTutti pazzi per Lavezziを、フランチェスコ・レンツィがPochaをそれぞれラベッシ応援歌として曲を制作していることでも有名。

ナニこの写真うつりの良さ。まぁ小デブの小型戦車ですね。久々にプレーみたいな~


ニコラス・ガイタン
22歳で173cm67kg

すいません。情報がなくて

FW続き

ゴンサロ・イグアイン
Higuain against Zurich 11-25-2009.jpg

22歳で184cm81kg

アルゼンチンの名門リバープレート で若くして頭角を現し、2006年 10月8日のボカ・ジュニアーズ とのスーペルクラシコ では2得点を挙げ、注目を浴びる。2006-2007シーズンの冬のオフ、1200万ユーロ(当時のレートで約20億円)でレアル・マドリード へと移籍。

2006-2007、2007-2008シーズンでは主に3トップの右ウイングとして起用された。2007-2008シーズンではイグアインの先発により、ロビーニョ がベンチを暖める機会が増えた。2007-2008シーズンのアウェイでの優勝をかけた第35節CAオサスナ 戦では、後半の途中から出場。終盤にフリーキック からアリエン・ロッベン のヘディングでの同点ゴールをアシストすると、さらに試合終了間際には自ら優勝を決める決勝ゴールを決めた。さらに続く第36節のFCバルセロナ とのエル・クラシコ では後半の途中から出場し、ファーストタッチでゴールを決めた。この2試合を含む4試合連続途中出場でゴールを記録するなど、切り札としてレアル・マドリードのリーガ連覇に大きく貢献した。2008-2009シーズン途中からチーム事情(シーズン序盤にロビーニョ放出、ファン・ニステルローイ が長期離脱)により、センターフォワード を任されることが増え、ラウル・ゴンサレス との2トップを形成した。このシーズン、マラガCF 戦では不調のチームの中でイグアインは一人気を吐き、4得点を挙げてチームを勝利へと導いた。最終的にこのシーズン22得点を挙げチーム得点王となる活躍を見せた。

2009-10シーズン も、クリスティアーノ・ロナウドカカベンゼマ といったそうそうたるアタッカーの加入により、開幕戦こそスターティングメンバーに名を連ねることが出来なかったが、徐々に信頼を得ると主将のラウル、ベンゼマからレギュラーを勝ち取り、昨年を超えるハイペースでゴールを量産した。最終的にリーグ戦 で昨シーズンを上回る27得点を挙げ、リーガの得点ランキングで2位となった。 ゴールをコンスタントに決めることから、マヌエル・ペジェグリーニ 前監督からの信頼も厚かった。

ベスト16に終わったUEFAチャンピオンズリーグオリンピック・リヨン 戦のセカンドレグでは、ゴールキーパーをかわした後に無人のゴールに決められなかったこと、ディフェンスが3人いたにも関わらずフリーだったクリスティアーノ・ロナウドにパスを出さなかったことなどから戦犯の一人と見なされ、チームの第2キャプテンであるグティ から暗に批判された。

ジョゼ・モウリーニョ が監督に就任した2010-11シーズンは1トップを任されるもゴールが遠く、序盤戦は不調に喘いだ。

2006年11月、ドメネク 監督からフランス代表 に招集されたが辞退。2007年初頭にアルゼンチン市民権を獲得したことを受けて、今後はアルゼンチン代表 入りを目指すことを表明。 2008年2月、バティスタ 監督からU-23アルゼンチン代表メンバーとして初招集されると、グアテマラ 戦で代表デビューを飾り2ゴールを挙げた。5月、カタルーニャ選抜 との親善試合にも出場したが、両試合ともFIFA が承認する国際Aマッチではないため国際試合での出場数やゴール数は記録されていない。

2009年9月25日、マラドーナ 監督から2010 FIFAワールドカップ・南米予選 メンバーとしてピンチに陥っていたアルゼンチン代表に招集される。2009年10月10日のペルー 戦で代表デビューを飾り、先制点となる代表初得点も挙げた。2010年3月3日の親善試合・ドイツ 戦では決勝点を挙げた。イグアインは窮地に追い込まれていたアルゼンチン代表を救い、ワールドカップ出場へと導く。

2010 FIFAワールドカップ では、イグアインはマラドーナ監督からFW のファーストチョイスとされていた。ギリシャ 戦を除く全ての試合に先発出場し、6月17日の韓国 戦で大会唯一のハットトリック を記録した。アルゼンチン代表としてワールドカップでハットトリックを記録したのは元アルゼンチン代表として歴代最多ゴールを挙げたガブリエル・バティストゥータ 以来、ギジェルモ・スタービレ 、バティストゥータに次いで3人目の快挙。

愛称の『ピピータ』は、父親のホルヘ・ニコラス・イグアインの愛称が『ピパ』であったことから付けられた。

イグアインが不調のときに、チームメイトであったルート・ファン・ニステルローイ から「ゴールはケチャップ みたいなものだ。」とアドバイスを受け、その後復調し得点を量産した。ケチャップは、必死に振っても出てこないが、一気に出てくることもある所がゴールと似ているということ。ゴールとはそういうものだとイグアインを落ち着かせようという意図の発言だと考えられる。

この前の試合(リーガ)では決めたけどそれまで外しまくってたし調子どうなんだろはてなマーク


カルロス・テベス
Carlos Tévez ManCity1 cropped.jpg

26歳171cm73kg

ブエノスアイレスの貧民街で5人兄弟の長男として生まれた。

プリメーラB・ナシオナル (2部)のCAオール・ボーイズ でプレーしていた時にボカ・ジュニアーズ にスカウトされ、13歳でボカ・ジュニアーズの下部組織に入団した。17歳でトップチームデビューするとすぐにレギュラーの

座を獲得した。ボカ・ジュニアーズ 所属時代は2003年のリーグ優勝、コパ・リベルタドーレス 優勝、トヨタカップ ではACミラン をPK戦の末に破るなど、大きな活躍をした。アテネオリンピック では、8ゴールを記録して得点王となり、ハビエル・マスチェラーノ らと共にアルゼンチンの優勝に大きく貢献した。

MSI社が保有権を獲得し、特殊な移籍形態で2004年にコリンチャンス に移籍した。移籍から半年後にはキャプテンを任され、2005年のブラジル全国選手権 で優勝した。アルゼンチン人ながらブラジルのサッカーファンに愛された。ブラジルのルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ 大統領は、「アルゼンチン人サッカー選手がブラジルで活躍することはないだろう」と発言したことがあったが、テべスがリーグ最優秀選手に輝いたために自身の発言を謝罪した。2003年から2005年まで3年連続で南米年間最優秀選手賞 に輝いた。

2006年、アルゼンチン代表のマスチェラーノとともにプレミアリーグウエストハム・ユナイテッドFC に移籍。入団当初は不振であったが、シーズン終盤には10試合で7得点を挙げて、チームを残留に導く原動力となる。2006 FIFAワールドカップ のメンバーにも選ばれ、セルビア・モンテネグロ代表 戦で途中出場し、ゴールを決めている。

2007年にマンチェスター・ユナイテッドFC に2年間の期限付き移籍が決定した。2007-08シーズンはクリスティアーノ・ロナウドウェイン・ルーニー とともに、マンチェスター・ユナイテッドの2冠(プレミアリーグチャンピオンズリーグ )に貢献。39試合に出場し19得点を挙げた。シーズン前、ウェイン・ルーニー との共存は不可能ではないかとされていたが、プレミアリーグ 屈指のコンビであると試合 で証明した。

2008年12月に行われたFIFAクラブワールドカップ で優勝したため、南米・欧州の両代表で同タイトルを獲得した史上初の選手となった。

2009年7月13日、契約満了に伴い、マンチェスター・シティFC に5年契約で移籍した。

2010 FIFAワールドカップ 決勝トーナメント1回戦の対メキシコ代表 戦では、前半26分にリオネル・メッシ からのパスを受けて先制ゴールを決める。パスを受けたのはオフサイド ポジションだったが、ゴールが認められた。この試合ではミドルシュートでもう1得点を挙げ、大会選定のマンオブザマッチに選出された。

1歳の時に誤って熱湯を浴び、火傷を負った。母親によってタオルにくるまれた際に繊維が皮膚に付着し、首や胸にはプロになった現在でも傷が残っている。ボカ・ジュニアーズ 時代に、この火傷の痕を取り除く手術の費用をチームが負担するとオファーされたものの、「この顔は神様から与えてもらったものだから、変えるつもりはない。それに、この傷は生きてきた証でもある。」として固辞している。

マンチェスター・ユナイテッドを退団する際は残留の要請を受けていたものの、ディミタール・ベルバトフ の入団後は出場機会が少なかったことや、ファーガソン監督と確執があったことなどから、クラブ側からの残留要請を拒否し、ユナイテッドのライバルチームであるマンチェスター・シティへ移籍した。

ファン・ロマン・リケルメ とは本人自身も認める兄弟分である。

最近全く似合ってないモヒカンにした野蛮人ですwwまぁ実力あるし、最近好調ですしスタメンは堅いかな

お次はFW

出ましたレオ様特集

リオネル・メッシ
Lionel Messi 2009.jpg

23歳で169cm67kg

アルゼンチンのロサリオにて工場労働者の父とパートタイムの清掃員である母の間に生まれた。父方の祖先アンジェロ・メッシはイタリアアンコーナ 出身であり、1883年にアルゼンチンに移住した 。5歳の時には父親がコーチを務めるクラブで本格的にサッカーを始め、1995年には地元のクラブであるニューウェルズ・オールドボーイズ に入団する。しかし11歳の時に成長ホルモン の分泌異常の症状が発覚、治療なしでは身体が発達しないと診断され、サッカー選手としての未来に暗雲が立ち込める。その頃からその才能には高い評価が与えられておりアルゼンチンの名門クラブであるリーベル・プレート が獲得を検討していたが、クラブの事情により治療費が工面できず断念している。

大きな転機となったのは13歳の時に受験し合格したスペインリーガ・エスパニョーラFCバルセロナ の入団テスト。当時の監督カルロス・レシャック は彼のプレーを一目見ただけでその小さな身体に驚くべき才能と将来性が宿っていることを悟り、すぐさま合格を決めたという。FCバルセロナは家族揃ってのバルセロナへの移住を条件に治療費を全額負担することを約束し、家族もこれを快諾。スペインでの新たな生活を始めることとなる。この時の身長は143cmだった。

ユースチームで治療とトレーニングを続けた結果、身長は169cmまで伸び、プレーヤーとしても一流のテクニックを披露するまでに成長。2004-2005シーズンには弱冠17歳にして、プロのサッカー選手としてのキャリアをスタートさせることとなる。2004年10月16日にリーグ第7節RCDエスパニョール 戦でプリメーラ・ディビシオン ・デビューを果たすと、2005年5月1日の第34節アルバセテ・バロンピエ 戦で初ゴールを記録。17歳と10ヶ月7日で決めたこのゴールは、後にメッシ自身のアシストからボージャン・クルキック が17歳と51日で記録で記録するまでのクラブ史上最年少ゴールだった。このシーズンはレギュラー定着とはならなかったがその才能をのぞかせ、リーガ制覇を経験した。

2005年6,7月にオランダで開催された2005 FIFAワールドユース選手権 にはアルゼンチン代表 として参加し、エースとしてチームを牽引した。決勝となった対ナイジェリア代表 戦では先制ゴールを自身がドリブルを仕掛け獲得したPK から、同点とされた後の勝ち越しゴールをセルヒオ・アグエロ が獲得したPKから決め優勝に大きく貢献。大会を通じて6得点、得点王とMVPを獲得する大活躍を見せた。この活躍がフル代表監督ホセ・ペケルマン の目に止まり、同年8月17日のハンガリー代表 戦でフル代表デビューを果たした。この試合では63分に途中出場したものの、そのわずか40秒後に相手選手に肘打ちを入れレッドカードを受け、涙を流しながら退場というほろ苦いデビューであった。

FCバルセロナと2014年まで契約期間を延長し、スペインの市民権を得て臨んだ2005-2006シーズン、右ウイングのポジションをリュドヴィク・ジュリ と争い時にこのフランス代表 のライバルを上回る活躍を披露。ワールドユースも含めたクオリティーの高いプレーが人々に認知され、イタリアのスポーツ紙Tuttosportが選ぶゴールデンボーイ賞(U-21欧州最優秀選手賞)にクリスティアーノ・ロナウドウェイン・ルーニー を抑えて選出されている。UEFAチャンピオンズリーグ の対チェルシーFC 戦・第一レグを始め、相手左サイドをしばしば混乱に陥れるビッグプレイを連発していた素晴らしいシーズンではあったが、その対チェルシー戦の第二レグ中に右足の筋肉を故障してしまいその後のシーズンを棒に振る。結局リーガでは17試合、チャンピオンズリーグでは6試合の出場に終わったが、チームはリーガ、チャンピオンズリーグの二冠を達成。その偉業に少なくない貢献をした。

このシーズン後2006年夏、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップ には上述の怪我の回復が危惧されたが、プレイ可能な状態にまで回復しアルゼンチン代表に選出された。レギュラーとしての出場ではなかったが、それでも予選リーグの対セルビア・モンテネグロ代表 戦にて、ワールドカップでのアルゼンチン代表の最年少出場、最年少アシスト、最年少得点を記録する活躍をみせ、死のグループとも形容されたグループCの突破に貢献している。チームは準々決勝で開催国ドイツ代表 に敗れ大会を去っている。

2006-2007シーズンは故障による欠場が目立ったものの、右サイドから切れ込むドリブルが冴え渡り数々の印象的なプレイを披露する。バルセロナの最大のライバルであるレアル・マドリード とのエル・クラシコ では自身初のハットトリック を達成(試合結果は3-3)し、スペイン国王杯「コパ・デル・レイ 」準決勝1stレグ、ホームでの対ヘタフェCF 戦においては、センターサークル付近から5人をかわしてゴールを決めた。特に後者はアルゼンチンサッカー界の英雄ディエゴ・マラドーナ1986 FIFAワールドカップ における伝説の5人抜きゴールとほぼ同じコースを辿った、同じ13回のタッチでのゴールであり、当時のリーガ最小失点チーム相手に繰り出した「マラドーナ2世」と呼ばれる彼の"後継者"たる所以を見せ付けたスーパープレーだった。このシーズン、チームはリーガ三連覇とチャンピオンズリーグ二連覇のどちらも達成できずに終わったが自身はリーグ、カップ合計で36試合に出場し17ゴールと奮闘した。

2007年夏に母国アルゼンチンで開催されたFIFA U-20ワールドカップ2007 には出場資格をもっていたものの、既にフル代表にも定着していた自身は辞退(アルゼンチン代表は二連覇を達成)し、フル代表が臨むコパ・アメリカ へ出場した。レギュラーを徐々に手繰り寄せていた彼は、準々決勝の対ペルー代表 戦、準決勝の対メキシコ代表 戦でゴールを決めるなどチームの決勝進出に貢献。しかし決勝のブラジル代表 戦で敗れ、優勝を果たすことはできなかった。

2007-2008年シーズンは、ジュリがASローマに移籍したものの、プレミアリーグアーセナルFC からフランス代表 のエースストライカー、ティエリ・アンリ がチームに加入。サミュエル・エトーロナウジーニョ にメッシ自身と4人のワールドクラスのFWを揃えた陣容は「ファンタスティック4」と呼ばれその圧倒的な攻撃力が期待されたが、アンリがチームのスタイルにフィットするまでに時間を擁し、エトーが負傷、ロナウジーニョが不調と思うように攻撃陣が機能しない序盤戦、単独での突破から貴重なゴールを幾度となく記録しチームを支え、欧州最優秀選手を選出するバロンドール ではカカー 、クリスティアーノ・ロナウドに次ぐ3位に選出された。

2008年夏に開催された北京オリンピック の代表招集に際して、所属クラブであるFCバルセロナが当初は招集を拒否するという事態が起こり話題になったが、大会直前になって招集を認可した。結果的にこれがアルゼンチンの金メダル獲得の最大の要因の一つになった。大会が始まるとメッシは自慢のドリブルで幾度も相手の守備陣を切り裂き混乱に陥れた。2ゴールをあげ、決勝戦でもアンヘル・ディ・マリア のゴールをアシストするなど大車輪の活躍を披露、アルゼンチン代表の金メダル獲得の最大の功労者となった。

2008-2009年シーズンは、ACミラン に移籍したロナウジーニョ に代わって背番号10を背負ってチームを牽引。これまで孤立しがちだった右サイドにダニエウ・アウヴェス という心強い相棒が加わったこともあって、前線のエトー、アンリとともに驚異的なペースでゴールを量産。初めて年間通して故障らしい故障もほとんどなく過ごし、チームはリーガ・エスパニョーラコパ・デル・レイ に加え、UEFAチャンピオンズリーグ でも連覇を狙ったマンチェスター・ユナイテッド を決勝で下して見事に三冠を達成。メッシ自身も決勝で貴重な追加点を上背の無さから不得手と思われていたヘディングで決めるなど、大会を通じて9得点を挙げ、史上最年少の得点王に輝いた。2008-2009年シーズンの総計38ゴールは、チーム内得点王。また、リーガ・エスパニョーラ第21節、ラシン・サンタンデール 戦(El Sardinero)では、バルセロナのリーガでの通算5000ゴール目を決めた。ちなみにラシンは、マヌエル・ペレラ が決めたバルセロナのリーグ戦初得点の相手でもある。

2009年12月1日には2位のクリスティアーノ・ロナウド に大差をつけ、アルゼンチン出身の選手としては3人目(4度目)となるバロンドール に選出された。同年12月のクラブワールドカップ では負傷した状態での参加となったが試合には間に合い、準決勝のアトランテFC 戦では途中出場し決勝ゴールを挙げる。続く決勝のエストゥディアンテス 戦では先発出場し、延長戦の末にダニエウ・アウヴェス のクロスを胸で押し込み決勝ゴールを挙げ、バルセロナの優勝に貢献。メッシ自身は大会選定のゴールデンボール賞(MVP)を受賞した。胸でボールを押し込んだことに関してメッシは「相手GKが体勢を崩していて強いシュートを打つ必要がなかったので、確実にボールを押し込むために胸を使った」と話した。12月21日にはアルゼンチン人としては初となるFIFA年間最優秀選手 に選出された。メッシは同賞において2007年、2008年と2年連続で次点となっていたため、3度目の正直での受賞となった。

2010年1月16日のセビージャFC 戦で、自身バルセロナ通算100ゴールを史上最年少で達成した。また同年3月6日のUDアルメリア 戦で決勝点を挙げると、14日のバレンシアCF 戦、21日のレアル・サラゴサ 戦と2試合連続でハットトリックを達成するなど、バルセロナの得点を9得点連続で記録した[。4月6日のチャンピオンズリーグ準々決勝・アーセナルFCとの2ndレグで、大会史上6人目となる1試合4得点を達成した。決勝トーナメントでの1試合4得点は史上初であり、またこの得点で自身のチャンピオンズリーグ通算得点が25となり、リバウド を抜いてバルセロナ歴代1位となった。チャンピオンズリーグは準決勝で敗退し連覇を逃したものの、リーガではその後も得点を挙げ続け、バルセロナの連覇に貢献。メッシ自身は35試合に出場して34得点を挙げ、得点王、ヨーロッパ・ゴールデンシュー に輝いた。また、リーグ34得点、シーズン公式戦通算47得点はロナウド と並びバルセロナ最多タイ記録となった。

2010 FIFAワールドカップ では大会最大の注目選手として臨み、トップ下でプレー。グループリーグ第3戦のギリシャ代表 戦では初めてキャプテンを務め(アルゼンチン代表史上最年少)、大会選定のマンオブザマッチに選出される活躍を見せた。しかしチームはベスト4の座を賭けたドイツ戦で敗退し、自身も大会を通じてノーゴールに終わるなど、不完全燃焼に終わった。

フランク・ライカールト からは「バルセロナの将来」と呼ばれていた。

ディエゴ・マラドーナ2世と呼ぶ声も多く、マラドーナ本人からもそれを認められている。もっとも、マラドーナ2世と呼ばれる選手は多数おり、マラドーナ本人も認めた選手としては他にカルロス・テベスダレッサンドロ などがいる(詳しくはマラドーナ2世 を参照のこと)。

2008年末に、本人の手によるオフィシャルブログ を開設。日本語版が真っ先に開設され,2009年末には中国語版が開設されたが,英語版、スペイン語版などの開設の目処は立っていない。これについて、日本語版の翻訳を担当するサッカースクール運営会社取締役の今井健策によると、ブログの目的はファンへのメッセージを伝えること、および難病の子どもを支える「メッシ財団」の協賛金集めのためだが、後者についてはメッシのスポンサーが1業種1社の条件で契約を結んでいるため、契約企業以外の同業他社から広告を得ることができない。そのため、広告主が見つからない英語版やスペイン語版のブログは現在、開設できないという。

ワールドサッカー ウイニングイレブン 2009 以降、ウイニングイレブンシリーズのイメージキャラクターを務めている(ワールドサッカー ウイニングイレブン 2010 ではフェルナンド・トーレス とともに)。メッシ自身もウイニングイレブンシリーズをプレーしており、すぽると! の企画では国分太一 と対戦し、負けはしたもののその腕前を披露した。

かつてナイキ社 と契約していたが、後にアディダス社 と契約した。

ロックバンドのオアシス の大ファンである。2010年のW杯南アフリカ大会の時にチームメイトカルロス・テベス に薦められファンになった。特に好きな曲は"スーパーソニック ”と“リヴ・フォーエヴァー "である。

まぁメッシですよメッシ