今日、元気に30歳を迎えた。
元気なのが何よりである。元気があれば何でもできるとは思わないけど(笑)

ここしばらく、20代の10年間をしみじみと振り返っていた。
まさかこんな30歳になるとは、という感じもあり、また、こうなるのは必然だったんじゃないかという思いも同時にある。
はかばかしきこととはかなきこと、どっちが多かったかといえば、はかなきことの圧倒的に多い10年だった。
成し遂げたいことをことごとく成し遂げられず、失うものばかり多く、不甲斐なさや無力感ばかり抱えてきた。
思ったように物事は運ばない。
時が止まったり、暴走したり。止まってほしいときほど暴走し、早く過ぎろと思えば思うほど止まってしまう。
人生、ままならないものである。

「時は金なり(Time is money.)」ということわざがある。
時間はお金ぐらい価値のあるものだから、無駄にせず、有効に遣うのがよい、といったところだろうか。
この意味に沿って単純に考えれば、私はこの10年、時間を無駄に遣ってきたのかもしれない。
現に、お金になるような時間の遣い方はしてこなかった。
ただ、このことわざには、もっと深い意味があるんじゃないかと思うのだ。
それは、どんな時間の遣い方であっても、費やす主体によって、いかようにも価値を付与できるということ。
「時」には、機械的に流れる時刻であるところの「クロノス」と、人間の主観的に体感される時間である「カイロス」という、ふたつの概念がある。
私たちが、同じ1分でも長く感じたり、短く感じたりすることがあるのは、「クロノス」を前提としながらも、「カイロス」に依って生きるところが大きいからである。
一方で、「金」の価値もまた、今日の社会にあって分刻みで変動するものであることは、ご存じの通り。あるいは、お金のないときの100円と、お金があるときの100円とで、同じ100円でもその価値が変わってくる、ということがある。
つまり、「時は金なり」ということわざには、非常にファジーな部分があるんじゃないかというのが、私の考えである。
「時」も「金」も、その価値は決して一義ではないのだ。
費やす主体が「時」というものにどう価値をつけるか、もっと云えば、一見無駄に感じられる「時」のなかからいかに価値を見出すかが大事なのであって、それは他人に決めてもらうものではないというわけだ。
これが、私なりの「時は金なり」の解釈である。

確かに、はかない10年間だった。
ただ、私は、そんなはかない10年間を通して、価値のある気づきをいくつか得ることができた。
それをあえてここで表にはしないが、一見無駄な時間のなかに価値を見出すことができたのは、大きな収穫と捉えている。
はかない10年間、決して無駄ではなかったはず。

それに、今こうして、どっこいしぶとく生きていることが、私自身何よりの喜びである。
数年前じゃ考えられないことだったから。
変な死に方でもしていたら、それこそ無価値に時を止めてしまうことになるわけで。
当然これは私一人の力ではない。
いろんな局面でつまづいて迷惑を掛けてしまう不甲斐ない私を支えてくれる、たくさんの仲間があったからこそ、私は生きている。
そんな仲間たち一人一人に心から感謝すると同時に、30代は、この気持ちを少しでも返していけるよう、一日一日を大事に生きていきたいと思う。

不束者ではありますが、これからも、よろしくお願いいたします。

美里あい
前略


プロレスを観ているとすごく勉強になるなと思うのです。

とはいえ、私にプロレス経験があるわけでもなければやりたいというわけでもない。
そんな私でも、プロレスを通して、いろんなことに気づけるということを言いたいのです。

プロレスは格闘技か?という議論については様々な見解があると思いますが、私個人の考えとして、プロレスと格闘技(ボクシングや総合格闘技など)とは対極であるというものがあります。

現に、プロレスは、他の格闘技と大きく違う要素をいくつかもっています。
その最たるものは、技をかけることと同じぐらい、技を受けることが重視されているという点です。
「プロレスラーはなぜ相手の技を受けるのか?よければいいのではないか?」
よく聞かれるそんな問いに対し、プロレス界のレジェンドである天龍源一郎選手はシンプルな答えを出しています。
「美学ですよ」
すなわち、相手の技を逃げずに受けきって、それを上回ってこそプロレスの勝負になるのであって、逃げて勝っても、その相手に対して勝てたとは思えない、むしろ逃げた時点で二度と勝てないと思ってしまうと。
だから、プロレスラーは一にも二にも受身の練習をするわけです。受身の満足にとれない人はデビューできないし、デビューできても、受身をとれなければケガをしてしまうのです。

相手の技をどれだけ受けきれるかというのは、相手の個性をどれだけ引き出せるかということと等価です。
ただ一方的に殴って蹴ってムチャクチャにして勝ったところで、プロレスの試合としては評価されません。ただのケンカになってしまいます。
時には攻めこみ、時には一歩引きながら、互いに引き出しを見せ合うことで試合が構成され、盛り上がっていくのがプロレスの醍醐味です。
要するに、相手の個性を引き出せるプロレスラーが、良いレスラーということになります。
「攻撃は最大の防御」が多くの格闘技に共通する美学だとすれば、「防御は最大の攻撃」がプロレスの美学といえるかもしれません。

そういう大原則があると今度は、逆説的に、相手の技を避けたりすかしたり、反則攻撃をするような個性をもったレスラーもまた、プロレスの世界では光るわけです。
確かに原則からいえばそういうことをするのはアンフェアです。しかし、フェアな人間がいる限りにおいて、アンフェアもまた、プロレスの世界では許容されます。フェアがあってアンフェアが光り、アンフェアがあってフェアが光るのです。
これが、もうひとつの、プロレスと他の格闘技との異なる点です。

このようなプロレスの大原則は、友人関係にせよ、職場にせよ恋愛にせよ、日頃良好な対人関係を築いていくための大きなヒントを与えてくれます。
人と人とがコミュニケーションをとろうというとき、互いに一方通行じゃ成り立ちません。
一方が自己主張をするときには、もう一方は引く必要性が生じます。
これは、プロレスでいうところの受身にあたると思います。
相手の自己主張を尊重しつつ、その一発で崩れないように受身をとる。その応酬でコミュニケーションは成り立つわけです。
ところが、近年はことさら、コミュニケーションを築くための自己主張の方法論ばかりが議論されているような気がしてなりません。
近頃の若者は自己主張が苦手だと言われがちです。私はそうは思いません。むしろ、全体的に受身が下手になってきている、という方が大きいと思います。
相手の一言で瞬殺されたり、ケガをするのが怖くて一歩引いて相手の考えを聞けなかったり。
だから、互いがギスギスしてしまう。ギスギスするぐらいなら、コミュニケーションなんかとらない方がマシだ、となってしまう。
SNSが流行るのは、そういう面と向かってのコミュニケーションに対する諦念みたいなものの表象なのではないかと感じます。
あらためて書くと、プロレスは、時に一歩引くことで相手の主張と自らの主張とを立ち上がらせ、場を盛り上げていくジャンルです。その根底には、相手に対する尊重というのがあります。自分ばかり目立つ、という方向性はとりません。そのために受身の練習を重ねるのです。
日常のコミュニケーションでも、これと同じことがいえるのではないでしょうか。
「私はこう思うんだけど、あなたはどう?」「確かにあなたの言うのも一理あるよね」と一歩引く姿勢をとることが難しくなっている。こういう受身の練習を怠ると、世界がギスギスしてしまう。

そう考えると、私自身は、臨床心理士を志してから今日までの5年間ほど、一にも二にも受身の練習をやってきたように思います。
基礎から、みっちりと。
それまでの私は、むしろ攻撃型の人間でした。相手の主張を聞けない人間でした。
でも、受身の練習を反復することで、考え方が少し変わってきたような気がします。人間そう簡単には変わらないというのも確かにそうですが、この一点に関しては確実に変わった実感があります。
まずは相手の世界をじっくり体験すること、そのなかで場の流れを組み立てていくこと。相手が(私の主観のなかでの)ベビーフェイスでもヒールでも、まずは受身から、という思いが生まれてきました。
よく言われるところの「受容」と「共感」、あるいは「傾聴」というやつです。
三沢光晴選手は、「少し大袈裟なぐらいに技を受けるのが良い受身」と言ったそうですが、それもうなずけるところです。

「5年前から今日まで」と言いましたが、受身の練習というのは、これからもずっと、私にとっての大きなテーマとしてあり続けるのではないかと思います。
心理士としてやっていくうえでも、それも含めた私自身の心身の強化という意味でも。

受身をとり損ねて一度大ケガをした人間ですから。


かしこ


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